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2014/2/10

イベントレポート

+クリエイティブレクチャー 「食からはじまる地域づくり、その後」 レポート

2013年12月15日(日)

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山形県にある地元食材を使ったレストラン、アル・ケッチァーノのオーナーシェフ、奥田政行氏をお招き、+クリエイティブレクチャーを開催しました。奥田氏が行っている食を軸にした地域づくりの活動の展開や最新の活動についても伺いました。レクチャー後には、交流会も行い、奥田氏は参加者からのたくさんの質問に答えていました。
奥田氏の出身地でもある山形県庄内地方での、無登録農薬問題でついてしまった悪い印象から、「食の都庄内」へ変えていった、考え方、人を巻き込む仕組みなどの経験を生かし、東日本大震災への支援を先頭に立って行っています。入院期間でも、その時でしか学べないことにチャレンジしていました。それらの経験や学びから、食を通して日本を元気にする活動を精力的に続けています。

奥田氏
私はよく兵庫県に来ています。今日も、淡路島にある「のじまスコーラ」というパソナさんと一緒に行っている地域活性、人材育成事業の施設で、ディナーをつくって、ここへ来ました。「のじまスコーラ」へは、アル・ケッチァーノで一番優秀な人材を送っています。ぜひ食べに行ってみてください。「アル・ケッチァーノと同じ料理を作って下さい」というと作ってくれます。

アル・ケッチァーノとは
アル・ケッチァーノは、山形県の海側にある10万人都市で鶴岡市というところにあります。あまり知られていませんが、国宝と重要文化財が東北で一番多い町です。このことは地元の人もあまり知りません。以前は何人もの人が事業に失敗したお化け屋敷と言われた建物でしたが、アル・ケッチァーノに変わり、現在は日本中からお客さんが来るお店にになっています。開店当時は借金もありお皿はすべて100円ショップで購入したものでした。店内の絵は、額縁だけ高いものを購入し、中身は画集でした。エスプレッソコーヒーのスプーンも普通に買うと300円しますが、七味唐辛子用のものは35円で購入でききました。メニュー表を購入するお金もなかったので、黒板にメニューを書いていました。
ランチ倒産という言葉を聞いたことがあるでしょうか。安価なランチタイムにはお客さんが入るが、高価なディナータイムにはお客が来なく、お店が潰れてしまうことです。ランチタイムの安くした金額はお客さんにとってサービスとは思っていなく、ただディナータイムは金額が高いと思っています。アル・ケッチァーノはランチも、ディナーも同じ値段です。2003年から2008年2月までお店が満席にならなかった日はありませんでした。

野菜が主役の料理
料理本のレシピは、東京に入ってくるまで何日も何時間もたった野菜を美味しくする料理をしています。例えば、トマトの冷たいパスタは、トマトを湯むきして、カットして、塩、はちみつ、ビネガー、オリーブオイルで半日漬け込んで、冷たいパスタと和えます。なぜ、トマトにはちみつとビネガーを加えるのかというと、東京で購入できるトマトが甘くも酸っぱくもないためです。新鮮で香があり、畑で採りたての野菜を使えば、調味料がいらないことが分かります。アル・ケッチァーノの料理は違います。甘くて酸っぱいトマトを探しに行き、それを収穫し料理をしました。自然とそういったスタイルになっていきました。東京で購入できるトマトは青いうちに収穫し、農協が持っていきます。そして市場で赤くなっていくのを待ち、お客さんに届きます。つまり未熟のまま、枝から栄養をもらう前に収穫されたトマトなので、甘くも酸っぱくもないです。調味料というのは本来、完熟した状態の野菜が採れれば必要ありません。

地元のものが本当においしいのか?
現在百貨店などでも販売されている平田赤ネギはご存知でしょうか。昔は細いネギで、特に注目を浴びることのなかった江戸時代からある伝統的な酒田市の野菜です。私は生産者にポロネギという西洋のネギを食べさせ、こういうネギが、世界が美味しいというネギであることを伝えました。それ以外にも生産者にさまざまなお店でネギ料理を食べてもらい、どのように料理したらいいのかを一緒に考えていきました。畑の中から根元から枝分かれしない1本のネギを見つけ、その種を選抜し栽培しました。その後平田赤ネギがブランドとなり、畑の面積が8倍へ広がり、NHK番組などでも紹介されました。

地元のものは安全、安心なのか?
無農薬栽培にチャレンジしましたが、料理人である自分が1日中草むしりをして終わってしまうことが分かり、料理人をしながら畑をすることはできなことが分かりました。それでも、安全、安心な無農薬のものを使いたいと考えているとき、在来作物(※)に出会いました。庄内には約70種類の在来作物があります。これらを調べていくと、太平洋戦争後、日本に多く農薬が撒かれたので、それ以前に作られた野菜に注目しました。
在来種のきゅうりは、現在市場に出回るのきゅうりと味がことなり、それらと同じように調理をしてもおいしくありません。そこで、私は在来種のきゅうりを食べて、食べて、吐き気がするまで食べました。その時にあ!ツナが食べたい、油が食べたいと思い、そのきゅうりに合わせて料理を作っていきました。
そのように考えていった料理は…
きゅうりの水分を生かすために、カレイをパサつかせて焼いて、その上にきゅうりをのせ、パサついたカレイときゅうりを一緒に食べると、口の中できゅうりがカレイの中に入り込んで、カレイが瓜の香りがして美味しくなります。
だだちゃ豆を考えた際は、豆のひげから髭を連想し、食べ続けました。だだちゃ豆はホタテの香りのする豆なので、エビの香りがする牛乳をカプチーノのように泡立て、それをつけて食べると、泡がひげにつき、ホタテの味とエビと乳製品で、高級なフランス料理のオマールエビのムースのような香りになります
海を料理したいと思い、庄内浜の魚は瓜の香りがするので、シチリアの青草の香りがするオリーブオイルをかけると、メロンの香りに変わります。満月の満潮時の海水から取った塩は少し苦みがあり、マグネシウムの多い塩になるので、それを刺身にかけます。
1口目、おしいのかな?2口目、メロンの香りがする。3口目おしいいと思います。もっと食べたいと思う時にはもうありません。そこで庄内の海を連想します。

※在来作物:ある地域で、世代を越えて、栽培者によって種苗の保存が続けられ、特定の用途に供されてきた作物。

野菜の地質学
野菜の種類は何万種類もあり、自分の人生を80歳と仮定し、1日24時間で割って、1つの野菜を勉強するのに100時間かかるとすると…一生かけてもすべての野菜を勉強することはできないことがわかりました。
神戸でできる小松菜と庄内でできる小松菜は種が同じでも、味は異なります。日本海側や太平洋側でも異なります。水が小松菜に与える影響、土が小松菜に与える影響、風が小松菜に与える影響、太陽が小松菜に与える影響を勉強しようと思い、そこで地質学を勉強しました。水土風太陽を勉強するといろいろなことが分かります。

食の都庄内へ
食の都にするにはどうしたらいいのか。庄内の野菜を次につなげ、次の世代で料理人のスーパースターが生まれるシナリオを考えました。
地元の食材がなくならないように、地元のお母さんたちに地元の野菜を使った料理教室を開きました。田舎なので料理講習会の謝礼はとても少ないです。お母さんたちが地元の食材を知れば子どもに食べさせます。それを食べた子どもの中から、何千人に1人でも料理人になりたいという子どもが出てくるといいなと思います。
おじいちゃんおばあちゃんには適地適作について地図を用いて教えます。庄内のタケノコの美味しい地域、アスパラの美味しいのはここですなど産地を教えています。おじいちゃんおばあちゃんに教えることで、孫に伝わります。
自分は庄内の裾野づくりをしようと思い、将来の世代で食の都完成を目指しました。
そのように走り出したときに、2002年に、山形県を中心に無登録農薬問題が起きました。登録をしていない農薬を使用したので、その農薬を使用した野菜や果物すべて廃棄処分になりました。全国のニュースで流れ、生産者には自殺者もいました。この時期に京都の錦市場に行くと、「山形産ラ・フランス安全です」と書かれていましたが、誰も見向きもしていませんでした。山形県は大変なことになってしまったと思いました。このままでは山形県の生産者の方の未来が見えなくなってしまうと思いました。そこで何とかしなければいけないと思い、わたしは32歳の時に、無登録農薬を使った山形ではなく、「食の都山形」であることを目指す図を作成しました。庄内にはどんな風景はあるのか、生態系は何が残っているのか、軍人はどのような人が出ていたのか、歴史的建造物、無形文化財…を書き出しました。あやふやな記憶はすべて文章で残し、それらが体系化した時に食の都が完成すると思いました。1人ではできなので、行政がやる事、個人がやる事、アル・ケッチァーノがやる事、私がやる事、全て分類しました。

名コンビ
料理以外に教えなければいけないと思い、大学の先生と一緒にいろいろ活動をしました。地元の野菜に私が物語をつくり、先生が学術的なことを付け加えました。このことはとても重要で、私が話をすると、この人が言っていることは本当か?と思いますが、大学の教授にマイクを渡すと、突然みんな信用します。しかし大学教授が話すと話が固いので、みんな寝てしまいます。その時にマイクを私が借りて話をするとみんな起きます。それを2人で繰り返し、漫才コンビのようにして、山形県内中を回りました。

常に笑う
『四季の味』という全国誌で、山形県庄内の食材の連載依頼が来ました。この時に、食習慣を食文化に変えれば、この町が変わると思いました。食習慣ひとつひとつに物語をつけていき、物語が溜まっていくと、食文化に変わります。ちなみに撮影で使用したお皿は陶芸家が作った45,000円です。アル・ケッチァーノのお皿は当時100円ショップでの購入品です。450倍のお値段のお皿に料理がのっています。お皿に見合う料理を作れば、食の都として認められていく、庄内に光が当たります。毎回立派なお皿が届くので、それに合うように普段食べている料理に、猛勉強しほとんど寝ない生活で物語をつけました。そうすると、読者が増えました。次にクロワッサンの連載が来ました。
最近はどうやったら転がっていくのかが分かってきました。「連載してください」と言われるときに、相手が奥田政行に期待するイメージを上回る120点の事をすると、うまく転がっていきます。しかしスタッフが辞めていきます。気づいたときには怖い顔をして仕事をしていました。料理をして、レシピを作って、文章を書いて、FAXをすると、次のものが来て…睡眠時間は2時間でした。
ある日から、苦しくやらないで、笑ってみようと思いました。常に笑う。スタッフが辞めて行ってしまうので…。そうしたら「ズームイン朝」がやってきました。この時も笑いました。私のおもてなし論は、自分の持っている物をすべてその時の為に全部出すことです。この時、調理学校で先生もしていたので、朝4時に準備をしました。もし失敗しても2重3重に準備をしました。その結果は大成功でした。

食の都庄内完成
「ズームイン朝」の歴代の司会者に美味しいものを食べさせるという企画で、徳光和夫さんに山形の食材美味しいねと言わせれば、「無登録農薬問題の山形県」が日本全国で「おいしい山形県」に変わると思い、徹夜で挑みました。そして徳光さんがレンズマメのリゾットで食べ、「山形県の食材は美味しいね」と言ったとき、山形県の無登録農薬問題は終わったと思いました。
たくさんの雑誌などにアル・ケッチァーノの事が掲載され、そのことで庄内に光が当たると思いました。「情熱大陸」にも出ました。出演するときのは、庄内の風景をきれいに映すことでした。放送後、魚を買いに行ったら知らないおばちゃんに抱き着かれ、「庄内が全国に届いた、ありがとう」と言われました。スローフードの全国大会の開催やSLが走るなど、いろいろなことが起こりました。食の都と検索をすると、大阪ではなく、庄内がはじめに出てきます。自分の世代で一生かけてやっていき、次に世代をイメージしていたことが、食の都庄内になりました。ミシュランガイドにも出ています。「おくりびと」という映画の影響で、山形県で4位の観光地だった庄内が、今は1位になりました。
そんな中、東日本大震災が起こりました。

思い込み
原発の問題は、無登録農薬問題と似ていたので、勝手に自分がこの問題を解決しようと思いました。思い込みは大事です。自分にしか日本を助ける人はいないと思いこみました。無登録農薬問題の時のことを思い出し、何をしたかを考えました。まずは生産者のところへ行き、生産者と語り合いました。問題を聞いて、現状を聞いて、一緒に未来を語り、行動を起こし、行政に働きかけ、目標をつくり、生産者の方々と先輩のシェフたちと、気持ちを一つにして地域を元気にしていきました。必ず現状を知るという事が大切なので、炊き出しをしながら、現地はどうなっているのかを知り、そこで自分が何をすべきなのかを考えました。お店を閉めた夜に出て、明け方にいわきに着き、炊き出しをして帰ってくるという生活をしていました。私は一番炊き出しに行った料理人だと思います。毎日魚を食べていた人が、魚を食べられなくなったので、お寿司をつくると、痴呆症のおばあちゃんが良くなりました。
次に生産者が自立できる環境をつくろうと思いました。瓦礫の撤去作業ばかりしている漁師に、牡蠣の丼をつくるために牡蠣を採って欲しいとお願いし、海に入るのを躊躇していた漁師に、海に入ってもらいました。自ら立ち直るためには自ら体を動かすことが大切です。自分たちで採った牡蠣を3か月ぶりに食べると、自然と笑顔になります。その後、さまざまな問題がある中、漁が始まりました。

入院
東京スカイツリーでプロデュースしているお店で、福島のスタッフが川俣シャモに放射能測定器で測り、安全性を証明し、誰もが使う前に食材として使用しました。このことは新聞などにも取り上げられ、震災前の2/3まで売り上げが戻りました。庄内で実践したことを福島でも実践しました。福島を元気にするには具体的に何をすればいいのか考え、まずは地元の人が盛り上がって、完全に放射能が大丈夫だと言われるまで、生産者の人や一次産業の人が辞めないように、地元の人が安全で安心なものを、きちんと調べて安全な食材を使うという事をやりました。山形県の無登録農薬問題から立ち直ったように、料理人として頑張ろうと思いました。料理人は意外にいろいろなことができます。これから日本をつくる子どもたちへ向けた料理講習会も行っています。一人一人が粒子となって日本の未来をイメージして、多くの人と語り合いみんなが共に喜びあえる、新しい日本をつくっていきましょう!といろいろ啓蒙活動を行っていました。そうしたら…入院してしまいました。あまりに頑張り過ぎたようです。

ピンチの後のチャンス
消化器系の入院をしました。普通入院はピンチです。しかし、目の前には消化器系の先生がいます、栄養士さんもいます。栄養学、アンチエイジング、漢方、マクロビオティックの本を読みました。あるところでは牛乳が良い、あるところでは牛乳が悪い、あるところでは大豆が良いと書いてあり、「先生これはいったいどういう事ですか?」と昼間は質問攻めをし、夜にそれをまとめるという事をしました。久しぶりに自分の為に勉強をしました。とても幸せな入院期間でした。そこでできたのが奥田式健康法です。38品目で、柿酢のジュースと一緒に野菜を500g取る、砂糖はすべてオリゴ糖を使い、吸収されない糖分を使用します。野菜を食べて、その後に、肉、パスタを食べます。健康料理を勉強していたために、三重で始めたアクアイグニスは大繁盛しました。ピンチの時はピンチと思わないでください、その後ろにすごいチャンスが待っています。

料理界のドラえもん

幼稚園の時の気持ちで、偉いとか偉くないとかではなく人として接していると、誰とでも仲良くなれます。答えは3秒で決めます。3秒以上かかると、いろいろな自分の打算が入ってしまいます。
そして、私は料理界のドラえもんになりたいと思っています。ドラえもんはのび太がこういう道具出してよと言うと、笑いながら出します。ダメなときはダメと言いながらも、結局出してしまいます。しかしのび太君はその道具を使って失敗してしまい、窮地に立たされてしまいます。だから言ったじゃないと言いながら、ドラえもんは助けに行きます。そういう料理人を目指しています。


+クリエイティブレクチャー 「食からはじまる地域づくり、その後」

http://kiito.jp/schedule/lecture/article/6674/