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2022/7/4

イベントレポート

ちびっこうべレクチャー 「子どもと学びの哲学 ―多彩な未来をつくる教育とは?」 レポート

2022年7月2日(土)

「ちびっこうべレクチャー 子どもと学びの哲学 ―多彩な未来をつくる教育とは?」を開催しました。
KIITOでは、2012年の開館より、子どもたちが様々な分野のクリエイターから職能を学び“夢のまち”をつくる体験型プログラム「ちびっこうべ」を開催しています。今回5回目にあたるちびっこうべ2022の開催を目前に、そもそも「創造性を育むってどういうことだろう?」「創造性を育むことには、どんな価値があるのだろう?」といった創造教育の目的や意義を改める機会として、渋谷PARCO内に拠点を構える「GAKU」の事務局長・熊井晃史さんをゲストに迎えてレクチャーを開催しました。まずは熊井さんのお話からスタートです。

 

初めて卵を割った時の感動を覚えていますか?

学びって環境に依存するものだと思っています。300+300って計算式を立てるより「300円のものを2つ買ったら?」と言われる方がイメージが付いたりしますよね。僕が子どもの時は商店街が元気でちびっこうべみたいな光景が日常だったんです。お惣菜屋さんのおばちゃんが声かけてくれたりとか。そういった関係性が薄くなってきている中で、それらをどうつくるのかということを常に考えています。
こういった活動ってプログラムに内容に着目されがちなんですけど、そこに関わる人がどういう風にいたらいいのかという方が大切だと思っています。例えば「みなさんははじめて卵を割った時の感覚って覚えていますか?」はじめて卵を割った時に「できた!」って感動っていうか達成感というか、大人になっていくにつれて忘れちゃうような、今までにない感覚がその時にはあると思うんです。ちびっこうべのようなプログラムには、卵を割るとかカッターを使うとか、そういった感動に出会える場なんですよね。
それと同時に、子どもたちの初めての感動に寄り添える大人のコンディションも大切だと考えています。理科の先生とか実験を何回もやっているけど、子どもたちにとっては初めての実験ですよね。大人がその子が体験するはじめての感動に寄り添えるかどうかで学びの質も変わってくると考えています。

美術の時間に、彫刻刀で作品をつくらないで削った木の屑を匂っている子がいたらどうしますか?

結論的なことを先に話すと、教育という営みを先生や学校だけのものではないと思うんです。いろんな大人が子どもの学びに関わるようになればいいなということを考えています。
教育系NPO法人に所属していた時の話なんですが、WEBサイトに書くキャッチコピーを考えている時に「論理的思考がつく」とか「コミュニケーション能力がつく」っていう言葉を使いたくなかったんですよね。書いてしまうと子どもを自分の思い通りに管理できるような書き方だなと思って。それでひねり出した言葉が「遊び方を自分でつくる」だったんです。
学校の先生に「美術の時間に、彫刻刀で作品をつくらないで削った木の屑を匂っている子がいたらどうしますか?」と質問をすると、ほとんどの先生が怒るって言うんですよね。学校として評価をしなくてはいけないとしても、予期しないできなごとに対しては対応できないんです。他にも「英語の授業で自分より英語が上手な生徒がいたらどうしますか?」とかいろんなことを聞いてみたんですけど。教育っていうものが上から下にという構図がどこかにあると思っていて、なるべくそういうことがない環境にはいい学びがあると思っています。

いい街は少年・少女が将来なりたい大人に出会えるような街である。

2017年に独立をしました。日常にどれだけクリエイティビティを育めるか、不意の学びをどれだけつくれるかということをテーマに、商店街の中にスペースを借りて子どもたちの居場所づくりをしています。建築家のルイス・カーンが「いい街って言うのは少年・少女が将来なりたい大人に出会えるような街である」って言葉があって、ちびっこうべにつながると思うんですが、子どもたちがこうなりたいという大人に出会える機会をつくって行きたいなと思っています。

大切なことは結果的に起きる。その確率をどういう風に上げていくか。

よく保護者の人から「私、創造力がなくて、だから子どもたちには創造力をもって育ってほしくて」という話をよく聞くんです。そういう風に思わせちゃいかんなと思っていて。学校の美術で怒られたから文化・芸術が嫌いになってほしくないし、体育が嫌いだからスポーツが嫌いになってほしくないじゃないですか。
みんなが創造的な存在で尊い存在であるということを思っておいてほしいんです。保護者が求めているものと、子どもが本当に求めているものは何かということを常に考えています。
10代の一番の死因って自殺なんです。本当に子どもたちが求めているものって言語化されてないんでしょうけど、それでも命を絶つ子どもが多いんです。それって魂が震えるような出会いが起きてないんじゃないかなって考えていました。だから、そういう場をつくらなくてはいけないなと思っていたんです。
渋谷PARCOの話が来た時に考えていたことなんですけど。著名なクリエイターから学ぶことも意味があると思うんですが、それ以上に大切なこともあると思っていて、本当に大切なことは結果的に起きるので、その確率をどういう風に上げていくか。どういう場をつくるかということを考えています。
子どもたちのなりたい職業ランキングってあるじゃないですか。なりたい職業のボキャブラリーを増やしていかないと思っています。どんな大人になっていたいかということでいいと思うんですよね。そういうコミュニケーションが必要だと感じています。

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トークの後半戦では、参加者の方から熊井さんに質問を募り答えていきます。
今回、子どもの教育に関わる参加者の方が多く様々な質問が寄せられました。今回はその中から一部を抜粋して掲載します。


Q:学校教育は大きなパラダイムの転換を求められています。お伝えいただいた取組を学校教育と、どう結びつけいくかを考えていきたいと思います。

A:慶応の井庭崇先生が提唱されているのですが、ティーチャー・ファシリテーター・ジェネレーターという3つの分け方があります。ティーチャーは教える人、ファシリテーターは引き出す人、ジェネレーターは生成する人。具体的に言うと一緒に驚く人。学校はダメという言い方はしないが、先生がジェネレーティブになれるかということが大切だと思います。子どもたちの近くに立って一緒に驚くことがまず一歩な気がしています。

Q:ここに集まっている人は子どもたちの成長に関わろうという人が多いと思います。 そんな人たちに、明日からできるようなアドバイスというかやってみてほしいと思うことはありますか? あるいは逆に、こんなことはしてはいけないよということはありますか?
A:子どもの事を本当に信用すると、やってはいけないことなんてほとんどないと思っています。何をやってもうまくいくという大人の姿勢の方が大切だと思いますね。
あと、具体的な話で言うと、子どもたちに「何つくっているの?」って聞く大人多いと思うんですよね。でも、子どもたちって粘土こねるのが気持ちいいからやっているみたいなことあると思うんです。子どもって優しいから、「船!」とか「車!」とか答えてくれんです。聞くことは悪い事ではないですが、僕はなるべく「どこを工夫したの?」って聞くようにしています。子どもって大人の期待や価値観に敏感だから、それを知ったうえで接することがいいのではないかなと思いますね。

Q:コロナ禍もあって、子どもたちは様々な活動に制限をされています。 その影響もあって、家の中で過ごす時間が増え、リアルに様々な大人から刺激を受けることが少なくなっています。 自分の気持ちを発散させたり、大きな声で笑い合う事も制限され、その影響が情緒の発達にどんな影響を与えるのか、とても不安に思っています。 熊井さんが、コロナ前と、コロナ禍とで、意識や子どもとの関わり方で変化があったことはありましたか?
A:子どもを信じぬけばきっと大丈夫。そう思っている大人がいないと子どもも辛いでしょう。
子どもの時に電車の大人の疲れ切った顔が嫌だったんですよ。アメリカに行ったときに大人たちが楽しそうな雰囲気でいたのがとても印象的で。でも、仕事が忙しくなった時に、ふと電車の窓に写った自分のつかれた顔にすごい落ち込んだ記憶がありましたね。

Q:「誰かのためにつくる」と「自分のためにつくる」では学びに違いはありますか?
A:誰かのためと自分のためが重なるところがあると考えています。人ってかけがえのない存在なんだけど、かけがえがある一般的な存在でもある。変わりがきかないであると同時に変わりがきくということの両立させていくことが成長にもつながると思います。
「誰か」「自分が」という垣根を超えて、自分が得意とすることが、誰かも欲していて、社会的にも意味があるみたいなことがあると思うんです。ドーナッツ好きな人がドーナッツつくって、それを他人や社会(地域)が求めているみたいな状況です。でも、教育の現場ってそのハレーションが起きがちで、算数が嫌いなのに算数を教えているみたいなこと起きてしまうことあるんですよね。KIITOみたいに本当に好きな人(プロ)から学ぶ場って大切ですよね。

Q:とをがって何ですか?
A:ギャラリーの名前ですね。キッズコミュニティスクールとかも言えるんですけど、そこは出会い方のデザインだと思っています。相談窓口・相談イベントと書いて来る人もいるとおもうんですけど、何か知らないけど相談しちゃった。みたいな出会い方もあるなと思っています。

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時間も少なくなってきたタイミングで、最後に熊井さんからまとめとして創造性という言葉について意識していることとしてこう話しを進めます。
創造性という言葉が、すぐイノベーション・国力増強という話につながってしまうことに違和感を覚えていました。そんな時に出会った言葉があります。
1つ目は中平卓馬さんの言葉で
「創造とはけっして無から有を生ぜしめることではない。与えられた「場」、あるいはみずから選びとった「場」をいかに生き通すか、それが創造である。」
2つ目は佐伯胖さんの言葉で、
その人は、何も世間が評価するような技能を達成したわけではないし、創造もしていない。ただ、「理解(appreciation)」というものをもっていた。本を読み、音楽を聞き、そして他人を「理解(appriciate)」していた。すべて「感謝(appreciation)」をこめて。そして、そのような理解をしていたとき、それは、まさに、私たちと「ともにある」仲間であった。その人が「わかる」とき、それは、その人の心の中のできごとではなく、わかり合うこの世の世界の文化の営みに参加していたのだ。「わかった」ということは、それだけで、その人の作品なのだ。それは、その人の、ほかの人への「わかり」への呼びかけであり、贈り物である。また「わかった」ということは、わかり合う人々への仲間入りであり、価値の共有への参入なのだ。文化というのは、「つくる人」だけで構成されているのではなく、「つくる人」と「使う人」、そして「わかる人」との共同で営まれているのである。もしも、「わかる」(むしろ、理解=感謝appreciation)という世界がなく、すべて人はつくり出すか、消費するだけだとしたら、これはもう文化でもなんでもない。たんに食物連鎖の一環にはまっている生物の、「食べるか、食べられるか」の生活の延長であるにすぎない。むしろ人間は文化の営みの中で、分かり合うことで生きており、生活しているのだ。ここまで考えたとき、生涯のほとんどをベットの上で過ごし、形になるものはほとんど何も遺さなかったその人の一生が、最後の息を引き取る瞬間まで「わかる(理解する、感謝する)」という、最も文化的な実践に参加していた、ということを確信した。(佐伯胖「『学ぶ』ということの意味」より)

例えば手が不自由な人は何も作れないから創造性がないかと言われるとそういう事ではないと思うんですよね。何かをつくるという話をする時に救いになったのが佐伯先生の存在でした。


熊井さんの温かくも芯のある一つ、一つの言葉に、これから子どもたちと関わっていく姿勢を考えさせられるような時間になりました。
今夏スタートするちびっこうべの内容は、ちびっこうべのSNS、または特設サイトがご覧いただくことができますので、ぜひチェックしてみてください。

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