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2024/3/21

イベントレポート

「話すと、何かがうまれるぞ。 〜『つくる』といわない『つくる』こと〜」 レポート

2023年7月26日(水)

トークイベント「話すと、何かがうまれるぞ。 〜『つくる』といわない『つくる』こと〜」を開催しました。

“つくる”という行為の中で子どもたちは何を学ぶのか、動作から会得していく言葉にならない感覚をどう理解をしていくかなど、体感的に学びを深めていくことの重要性について考えます。

KIITOでは、子どもの創造的な学びを育む活動として、様々な体験型プログラムを開催しています。2023年9月から10月にかけて開催されたワークショップ「動くと、何かがうまれるぞ。〜『つくる』といわない『つくる』こと〜」に先駆けて、「つくるってどういうことだろう?」という「学び」について改めて考える機会としての本企画。

子どもの創造的な学びに興味・関心のある主に大人の方を対象に開催し、30人弱の方々にお集まりいただきました。KIITOの子ども向け催事に講師やサポーターで来られたことがある方や、子どもの教育に関わるお仕事をされている方も多くいらっしゃいました。

登壇者は、出版社さりげなく代表・編集者のわかめかのこさん、奈良教育大学美術教育講座准教授・美術家の樋口健介さん。本企画の担当を務めるKIITOの三好の3名。それぞれの自己紹介からイベントはスタートです。

わかめさん(以下「わ」)
出版社株式会社さりげなくの代表を務めております。出版社でありながら本のジャンルを定めず、子どもに向けた本や鉛筆だけで繊細に描かれた漫画。短歌の歌集もあったり、自分の好奇心の赴くままに本づくりをしております。そのうちの一冊「こうさくのそうさく」をきっかけとして樋口さん改め“ひぐさん”と三好くんと一緒にKIITOでワークショップをすることになりました。

樋口さん(以下「樋」)
去年までは京都にある京都芸術大学のこども芸術学科で教員をしておりました。現在は奈良教育大学で准教授をしております。子どもたちとワークショップや一緒にものをつくる活動に取り組んでいます。そのプロセスで僕自身も制作に励んでいます。その中で子どもたちのつくること自体を楽しんでいる様子を羨ましいと思ったり、つくることってなんなんだろうと考えたことがきっかけで「こうさくのそうさく」をつくることになりました。

KIITO三好(以下「三」)
KIITOのスタッフとしてワークショップやトークイベントなどの企画・運営を担当しています。主にものづくりやデザイン。子どもたちの学びをテーマにした企画を担当しています。僕自身子どもたちに対する活動を沢山する中で「つくる」とか「あそぶ」っていうことをもっと多角的に捉えなおしたいと思っていたこともあり今回のトークイベントとワークショップを企画しました。

「つくる」とは何かをみんなで考えるためのプロジェクト 

本企画のきっかけとなった本「こうさくのそうさく」についての紹介から始まります。

 

わ:では早速本編に入っていきたいんですけれども、最初に紹介させてもらったこの「こうさくのそうさく」っていう本は、樋口先生、“ひぐさん”のプロジェクトなんですよね。

樋:「つくるってどういうことなのか、みんなで考えていきたい!」ということで企画をしました。僕が講師を勤めていた子ども芸術学科の学生たちと一緒に行った授業の内容をまとめていった本になります。

わ:ひぐさんがつくり始めからつくり終わりまでずっと大事にしていたことがあって、「あそぶ」っていうことが何かよくわからないから、とにかく遊んでつくりたいっていうこと、自分も何か遊びながらつくりたいっていうことでした。考えると言いながら、それは実はただの口実で、「ただみんなと遊びたい」それだけなんです。遊びながらつくっていくと、「あれ、こんなこと起きる?!」っていう瞬間に出会ったりするんですよ。そういうことを、作りながら遊びながら気づいていった本です。

早速なんですけど、この本の中でも取り上げている問いがありまして…。

勉強・遊び・学び・芸術の関係について考える

 

わ:勉強・遊び・学び、そして芸術のつながりって何だと思いますか?どんな風にみなさんの中で交わっていますか?それとも距離を取っていますか?それとも…みたいな(笑)
どういう関係性であるかっていうのを、考えていただきたいなと思います。ひぐさんは実際に子ども芸術学科の学生たちに同じ問いを投げかけたんですよね。

樋:僕自身もわかんないなと思いながら、やってみました。勉強・遊び・学びの3つの言葉だけでやってみたのですが、やっていく中で芸術が加わるとどういう交わり方になるのか気になって、4つ目の言葉に付け足しました。

わ:今回のトークのテーマ「話すと、何かがうまれるぞ」ということにも関係してくるのですが、答えは誰も持っていないと思います。話すだけで、次の何かがぽこっと生まれるということを楽しみながら今日は話したいなと思っているので、みなさんのそれぞれの距離感や関わり合いみたいなところを是非考えてみてください。

わかめさん、樋口さんが会場内を歩き始め、「当てたりしないので安心してください」と言うお二人の声に和やかな空気が漂います。

 

わ:何を考えているかで形が違っていたり大きさが変わっていくんですよね。やっぱりその時々で距離も大きさも変わります。
丸をどのサイズで描くのかというところでも個性が出て面白いなと思います。私は自信が無いとき丸のサイズがめっちゃ小さくなっていくんです(笑)
前提として、私とひぐさんは勉強と学びを別物として認識していますよね。異なる営みとして捉えているから二つの言葉を提示しているわけです。でも学びを勉強だと捉えている人もいるだろうし、勉強と学びを同一と捉えている人がどういう図を描くか気になりますね。

 

樋:この学生が描いた図の面白さは、勉強のみ他から独立していることです。そことは違うところに遊び、学び、そして自分が好きなものづくりが調和していますね。

 

これは僕の描いた図です。

僕にとって勉強は受験勉強のイメージと繋がります。遊びが大きくなったらいいなあと思って大きく描きました。その内外色んなところに芸術が点在している印象があります。その甘さに釣られてミツバチが入り込んで、媒介になりつつも良いとこ取りをしてくるという印象です。

「つくる」という行為には沢山の動作が存在している

勉強、遊び、学び、芸術の様々な相関関係が見えたところで、次は「遊び」を具体的な動作に置き換えて考えます。

わ:ではまたこうさくのそうさくの話に戻りますが、こういう図を描いたりということを通しながら、遊びってなんだろうとか、遊びを通しながら遊びってなんだろうってことを考えたりというようなことをしていました。今回のテーマ「つくる」といわない「つくる」ことが生まれたきっかけはこの本です。

 

ひぐさんや学生さんと話していると、私たちはわかりやすく伝わるように「〇〇をつくりましょう」、「はい、遊びましょう」と言ってしまいがちなんですが、つくることの中には沢山の動作が存在していることにこの本を作りながら気づきました。
学生たちにどんなことがつくる過程に存在しているかを聞くと、例えば「トイレ」とか「生きる」とかも含まれていました(笑)

  

  

「吊るす」「置く」「壊す」「飲む」「焼く」「やする」「休む」「指いれる」、やっぱり「絵を描きましょう」と言って「描く」ということを固定してしまいがちだけど、本当はこんなにも「描く」までに色んな動作がきっとあって、どんな方法でも絵は描けるはずなんだなとこの本を作りながら気づきました。

実際に学生にひたすら24時間、繰り返してみたい動作について尋ねてみました。
一つの動作を続けてもらう、そしてそれが遊びになるのか、作品になるのかみたいなことを実験的にやってみてもらいました。動作も学生自身に選んでもらいました。

ピスタチオを色づけて点を描き続ける人、プチプチの数を数え続ける人、ずっと握り続けられるものは肉まんだと言う人、様々な「繰り返し」を行う学生と共に、わかめさんは丸シールを貼り続け、樋口さんは3000本の釘を打ち続けました。

繰り返しの動作にのめりこむうちに、それが遊びそのものになっていたり、自ずと作品が出来上がっている。そういったことが起こっていたという発見についてお二人は話し続けます。

樋:繰り返したその結果、「あ、これは遊びじゃない」って思う瞬間がありますよね。

 

わ:私は「はる」は遊びじゃなくなってましたね。面白かったですけど、もう、キーっ!てなってたので「はる」っていう動作が自分には合わなかったんだなって思いました。

三:僕はこのワークショップを人に説明する時に、タイトルとか概要文だけでは伝わらないことが多いこともあり、よく持ち出す話があります。粘土をこねていたらめっちゃいい形ができたとか、ずっと丸ばっかり描いてたら何かわからないけどある形に見えてきたとかってあると思うんです。でもそれって何か目的を持ってつくるとか「これをやりなさい」という前提でやってしまうと、実はなかなか起こりえないことだと思うんです。そういう風につくったものって、「これ私が見つけた!」とか、「これ私がつくった!」みたいに、作った側にとって凄く自信になると思っていたんです。

わ:それでいくと私は、貼り終わった後のシールにはあまり興味が無くて、ただのペラペラのシールが貼り続けることによって溜まっていく変化に、よろこびや面白さを感じました。ワークショップ中に「〇〇をつくりましょう」って言ってるのに、端っこで別のことをずっとやり続けてる子とかいるんですけど、ああこういうことなんだろうなあと。貼るっていう目的のために行ってたらハマらないんだろうけど、目的外の動作として始めるとついやっちゃうんだろうな、わかるなあと思いましたね。

「並べる」ことで発生する現象

 

わ:これもつい私が衝撃を受けた授業内容です。「並べる」です。

樋:芸大に入ってきた学生もつくるとなると目的を見据え、それに向かってつくるという姿勢が根強いんですね。つくるってどういうことなんだろうという根源的な問いに対する体感的な学びのきっかけとなる行為として、ただひたすら並べる動作をしてみた授業です。並べるものは自分で選んできて、無限に入ってそうな袋とかスーパー行ったら置いてあるみたいなものがいっぱいあります。

わ:柿ピーとか。並べていく中でルールを決め出すんですけど、これが遊びの基本だなって。並べるっていう大きな動作だけ指定して、その中でどう遊ぶか委ねているからこんなことになったんだろうなと思うんですよね。

樋:ただ同じものがいくつも並んでいるだけで造形的にも美しく見えるというのもあるんですけど、遊びっていう目線でいうとその行為は自分ルールの発生ですよね。

三:数で見えるというのも良い点ですよね、並べられていく様子が目に見えてわかるので。

わ:わかりやすく成果が積み重なっていく感じですね。確かに、それぞれが違う形であるっていうことが見えてきます。それこそ自分ルールですよね。自分はどこに着目してその動作に励むのか、というような。

樋:数えたくなりますよね。10個単位で列を作っていくとか、数を把握したくなるっていうのもあったりして、数えるっていうところにも要点がありそうだなと思いました。

動作から遊びが生まれるのか、遊びから動作が生まれるのか

わ:実際に子どもたちとワークショップをした事例もありまして、「本気で遊ぶ」っていうことをやってみました。3つあって、これも沢山の動作が含まれていて「めくる」とか「転ばす」とか「削る」とか。ひとつの動作にはまっていく、それをひたすらやり続ける様子が面白いなと思って見ていました。それから「こっぱだらけの一日」は私のお気に入りです。子どもたちがどう動作で遊んでいたのか、素材とどう向き合っていったかというのを下に書いています。

 

樋:こっぱっていうのは2cmくらいの小さい木材ですよね。

わ:発明のごとくどんどん遊びが生まれていったんです。「泳ぐ」子もいれば、「落とす」だけで遊びになっている子もいて。「くっつける」子もいたり、「隠す」子もいれば「めくる」子もいました。

特にこの「こっぱ」の中で感じたことがいっぱいありました。先ほどの話にも繋がりますが、動作と遊びの関係性が面白いなと思いました。遊びという行為に沢山の動作が含まれていて、動作が遊びになってるのか、遊びが動作になっているのか、いわゆる鶏と卵みたいな関係性だと思いました。
大人も子どももごちゃごちゃになっているから「教える・教られる」という関係性が一切なく、どんどん遊んでいくという環境がありました。ワークショップだったり造形教室を開く中で、どういう場を作っていくか考える際に特に思い出されますね。上下関係が固定されない空間を目指したいですね。

三:どうしても大人のやっていることが正解に見えてしまったり、大人が喜ぶように行動しないといけないと。そう指示していないにしても、子どもたちは察してくれてしまいますよね。

素材との関係

樋:僕らができることとして、素材との出会いをつくってあげることは考えたいところですね。

三:素材との出会い方って大事ですよね。 KIITOの良いところは建物が100年程の歴史を持っており、よくわからない素材とかよくわからない形のものに沢山触れられるという性質があり、日常生活では触れる機会のないものに自ずと出会えたりする場所だと思っています。置いてある滑車みたいなもの (糸巻)が気になってとりあえず手で回してみる、といったことが起こったりする。そんなきっかけを作る素材やかたちとの出会いのある空間だと思っています。

わ:とはいえ、集客するということも考える必要はあるし、子どもたちに「楽しかった」という実感を得てもらうに越したことはないですよね。ゴールを決めておくと安心感がありますし。何をつくるかとか、そもそも用意した素材を用いて何をするとか、設計しておいた方が満足感は高いケースもある。一方で素材だけを用意しておいてとにかく身体を使わせる、動作を繰り返すという企画でも楽しいと言われる場合もある。そのあわいを考えるのが難しいなと思います。

三:ある種、素材だけ子どもに渡せるけれど、「何か感じ取ってくれ」という期待の域でやっている部分もやはりありますし。

動作を先行させることで出会える美しさ

わ:京都芸術大学の名誉教授をされている水野先生という方は、からだをうごかすことの重要性を掲げている方です。小学生になると自分の思うように走ったりもできる。自分で自分のストーリーをつくれるくらい色んな経験をしているからこそ、よりそこに縮こまってしまっていると。水野先生は、大人の身体も可動域が狭くなってきているので、授業の始まりにひたすら丸を描くという作業をしているとおっしゃっていました。動かして「気持ちいい」と思える部分をまず見つけてから遊びを作っていくことが大事で、そのステップを踏まないと頭が先行した遊びになってしまうそうです。そんなことをおっしゃっていた気がします。

樋:頭でつくったものってどうしても頭で見て理解できるものに限ってしまう。頭ばかりが先行しないような仕掛けづくりをすることが大切ですね。身体の動きを先行させると、いつの間にかできた美しさみたいなものと出会えます。

わ:「身体ほぐして心もほぐす」ということをおっしゃっていました。確かに私も仕事をしていると指先作業になっていて、パソコンにずっと向き合っている自分は本当に本をつくっていると言えるのだろうかと考えましたね。
だから料理 っていいですよね。料理は手だけ動かしているように見えて、動かす範囲が広い。料理が発散の手段になっている人が多くいるのは、この話との繋がりなのだろうと納得します。

三:手を動かしながら頭で工程を考えますよね。

樋:「つくる」を先行していくと出会える美しい現象や造形があります。

三:身体を動かしていると、難しいと思っていたことが「案外できるじゃん」と予想外に納得できたりする。つくるという過程での発見が学びのひとつなのだろうなと思います。

樋:水野先生はもともとデザインの人で、目的に向かって物事をデザインしていく方なんですが、ある時子どもという存在の面白さに目覚め、大人がそれをわかるようにするにはどうしたらいいのかということを考え続けていらっしゃいます。本人は公言していないけれど、僕は密かにそういう印象を抱いてきました。ある時おっしゃっていたエピソードを共有しますね。ゴミが一杯落ちているところに、テープを引っ張って走るとそのテープにゴミがくっついてくる、それを吊るして見てみると「なんかかっこいい!」という声が口々に上がりました。光を浴びて綺麗な影が映し出されていたんです。一口にゴミと言っても様々な素材や特徴があり、整理されると美しく見える。誰かが「こういうものをつくろう」と意図を持って作ったのではなく、偶然できた美しさがそこにありました。子どもにとってそれは楽しい行為、走るとか引っ張るとか、動作にくっついてきた造形でした。

スタートは素材に向かって全力で動き出すこと

わ:水野先生にまつわる有名な話なんですが、ワークショップ中に急にいなくなることがあるんです。子どもと同じくらいご自身も全力で遊んでいらっしゃって、それは凄いことだなと思いますし、そんな大人がいると子どもは本気になりやすいですよね。どういう環境で子どもたちが何を作れるかという話だと思うんですが、水野先生はある種の「装置」として創作の現場で機能しているように思います。

 

樋:やっぱり子どもたちは、大人のことをよく見ているんだろうなあと思いますね。周りに向けてつくっているのだろうし、特に親が近くにいるとそうなりやすいですよね。

わ:そうですね。三好くんは今回のトークテーマやワークショップの言わんとしていることが「わかりにくい」という印象を抱かれやすいと言っていましたよね。私たちは、何が生まれるかわからないけれど、素材に向かってまず全力で動き出すということを大事にしたいと話しました。大事にすべきだけれど、その点を目的としたワークショップを打ち出すのには勇気がいる。それで何になるの?と思う気持ちもよくわかるから、ジレンマに陥りそうになります。

三:期待を込めてのワークショップですからね、「ビー玉転がして何になるの?」と言われたら答えようがないです(笑)「何かになるかもしれないんです」と答えるしかない。

わ:KIITOで9月から行うワークショップは、各回の予定を動作で提示しています。第1回は「転がす、転がる」、まずはビー玉を転がしてみる、それから自分自身が転がって友だちを転がしてみる、それ以外にも色んな転がすものを用意し、何がうまれるか実験的に行う予定です。
ワークショップやこういうトークイベントもそうですが、ちゃんと楽しんでくれただろうかという気持ちになるんですよね。けれど人それぞれ何かしらの気づきがあるはずで、「つまらない」というのもひとつの感情であるからOKだと私は思います。子どもでも大人でも。とは言えワークショップ中や終了後には、楽しんでもらえているだろうかと不安になりますが、どれだけ相手を信じて遊んでもらうか、言葉を聞いてもらうかが大事ですので、その信念で挑みたいと思います。

樋:やはり事あるごとに葛藤はしますね。目的をどの程度設定するか、ですよね。本当は無目的に皆が遊ぶ中から色んな人の遊びが見えたりするということを望むわけだけれど、ギリギリここまでは仕組みをつくっておこうか、どうだろうかと思うんですね。

三:よく言う話かと思うんですが、何を学んだかは特に子どもたちにとってその時にはわからないことが多いですよね。大人になってみたらあの時は感動を自覚していなかったけれど原体験になっていたのだなとわかったりする。故にこのワークショップで何の力がつくかということを言いきれない。つく力があるのかもしれないし、何も得られないのかもしれない、という気持ちを抱いています。

わ:本をつくっていても頻繁に思います。「この本を読めばこんなスキルが得られます」という売り方をすると、手に取られやすい世の中なのかもしれないと思うんです。どこまでの情報を補助線として示すのかは、どこまで読者の歩み寄りを信頼する かで変わってくると思います。
それと、ワークショップ中に感想を聞くってあまり良くないと思うんですよね。「楽しい?楽しかった?」と聞くことは。「つまらん」という顔をしてたっていい。「退屈」って感情を今日は得たわけだから。
「ディズニーランドに行けば絶対楽しい」なんてわけないのに、そういう場をつくらなきゃいけないというような気持ちになります。強く、この子を信頼せねば…と思います 。

質疑応答

15分休憩の休憩を挟み、トークの後半ではわかめさんと樋口さんへ寄せられた感想や質問の読み上げを行いました。

皆さんにはお配りした折り紙に記入いただき、休憩時間に折り紙ボックスに投函していただいたものの中から、一部を抜粋して掲載します。
「私に向いてそうなことを教えてください!」や「制作物の保管場所ってどうしてますか?」など温かい空気をまとったお二人だからこそ寄せられた相談事もありました。

 

●ゴールやお手本なしで自由に絵を描いたり工作することが好きだったなあと思い出しました。
→樋:自由にって言われても手が動かないこともあるからしかけが必要になる時もある。
三:初対面の人と話す時に子どものとき夢中になってたあそびってなんですか?とかから話すと、職業とかから話をするより、人となりがわかる気がします。

●絵の力、絵本がもっと広がってほしいです。
→わ:大人こそ物語を読むと良いだろうなと最近思います。長新太「ミミズのおっさん」絵本の中には答えはなく、きっかけをもらえます。

●美術・図工の時間嫌いだった
→樋:せっかくやるのになんで嫌いになってしまうのか、もったいないと思う。作品を見られるのが恥ずかしいという気持ちは自然発生なのかとも思う。人と比べられないというのが美術という教科の強みと思う。

●本気で遊んでもらいたいけど、子どもが夢中になっているとき、どうしたら(どういう声かけをしたら)いい?
→わ:危険な方向にいきそうになったら体使って止める。夢中になったら放っておく。誰かとの関係性を気にせずとも夢中になりうる。
→樋:どうなっていくのか、なぜ夢中なのかを観察していたい。

●子どもが触りたがらない素材のとき、どう遊びに誘ったらいい?
→わ:おいでおいでと誘う。なんで触りたくないのかと聞く。安心して触っている人がいれば挑戦できるかも。

以下、読み上げのみ実施。
●どんどん絵が上手くなって賞を取ったりする9歳の息子に、賞を取る・評価されるが目的になっているので、「かく」、「つくる」という原点に戻ってほしい!今度のワークショップ応募します!
●子どもたちに意味を後付けしてもらうのも面白いかも。
●KIITOのこのようなワークショップは子どもたちにとって重要な機会であると思うが故に、体験格差が起こるのではと懸念がある。学校など公教育の場でもっとやってもらうにはどうしたらいい?
●ワークショップの時間と子どもの集中力との関係

まとめ
最後にご登壇いただいたお二人に、まとめの言葉として本日の感想を話していただきました。

樋口さん
話しながら考えたことが沢山ありました。本を読んでいて忘れてしまっていたことも思い出せて良い時間でした。

わかめさん
後半の折り紙ボックスは特に楽しかったですね。本をつくるということは記憶を定点で止めて形にすることだと思っているこの頃です。私たちの話を受けて小さい頃の思い出を投函してくださった方が沢山いました。楽しかった記憶は話が広がるなあと実感しており、この点については持ち帰ってもう少し考えたいと思います。

「つくる」といわない「つくる」ことの意味すること、登壇者3名の創作に対する考えが対話を通して伝わる時間になりました。