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2021/4/9

イベントレポート

神戸スタディーズ#8「まちで映画が生まれる時」スペシャルレポート

 

「まちと映画の「重心」を探る 」

 

中村紀彦 

映像/アピチャッポン・ウィーラセタクン研究、神戸市役所(デザイン・クリエイティブ枠)

 

 

神戸で撮られた映画が世界を席巻している。2020年の大きな話題といえば、神戸出身の映画監督である黒沢清の『スパイの妻』が、ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞を獲得したことだ。本作の脚本を担当したのは濱口竜介と野原位である。遡ってみれば、濱口と野原は神戸で『ハッピーアワー』(2015)という5時間17分の驚異的な作品を作り上げた。5ヶ月間のワークショップを含めた約2年の製作期間を経て産声をあげた本作は、演技経験のほとんどない4人のヒロインを起用し、第68回ロカルノ国際映画祭で主演女優賞を獲得した。『ハッピーアワー』から『スパイの妻』へ。この快進撃の主な舞台が神戸であることを、私たちはあまりにも知らない。

それにしても、いかなる理由のもとに数々の傑作が神戸で生まれてきたのか。デザイン・クリエイティブセンター神戸(以後、KIITO)のシリーズプログラム、神戸スタディーズの第8回目となるトークイベント「まちで映画が生まれる時」は、まさにこの問いをめぐるものであった。登壇者は、最新作『偶然と想像』(2021)で、第71回ベルリン国際映画祭銀熊賞を獲得したばかりの濱口竜介監督。2021年中に長編監督作の公開を目指す野原位監督。そしてKIITO前センター長の芹沢高志、神戸フィルムオフィス代表の松下麻理がモデレーターを務めた。当日は、まちと映画の関係性を二部構成による異なる視点から縦横無尽のトークが展開した。第一部は「映画制作者」の眼差しから、第二部は「地域のひとびと」の眼差しから捉える神戸での映画制作について議論された。

『ハッピーアワー』制作の中核を担ったKIITOという場所は、かつて生糸検査所であった。それがいまやデザインやアート、そして映画というテクスチャーの「生産工場」となっている。芹沢がはじめに述べたように、神戸という「まち」と映画が、この場所で編み上げられているのだ。もちろん布=作品を織り上げるには立役者が必要だ。それが神戸の外からやってくる映画制作者と、神戸に住むひとびとなのだ。戦時中を舞台にした『スパイの妻』が神戸の生糸検査所のシーンから口火を切ったように、わたしたちもこの場所から映画とまちの関係性をあらためて思考することをはじめてみたい。

 

 

 

カメラを向ければ映画になる街:海側・山側・高低差

濱口が神戸に降り立ってまず驚いたのは、三宮が「海側」と「山側」との境界のあいだに位置する都市だという「ごく当たり前」のことだ。街の北側から迫りくるような六甲山系、南側の開放的な港湾。この特徴が示しているのは、神戸とは「高低差」そのものであるということだ。すぐれた映画の多くは、土地の高低差をうまく利用する。なるほど、濱口と野原の『ハッピーアワー』は、映画の冒頭から物語展開は徐々に山側へと向かい、有馬温泉で4人のヒロインの感動的なやりとりが結実し、ラストは高台にある病院の屋上から海を見渡して終わる。山を登れば海が見える、という神戸に住むひとびとにとっては「ごく当たり前」な感覚が、本作では特別なものに映る。濱口たちが日常を特別な風景に変貌させたわけだ。物語とヒロインたちは山側へ向かうほどに深い関係を築き、互いの関係性を修復する旅となる。だがヒロインが海へ向かうように坂をくだるとき、その行為は物語から退場することを意味する(ヒロインのひとり「純」は、まさに映画の中盤に港から神戸を発ち、突如姿を表さなくなる)。本作のカメラの位置は山を登っていき、やがて海側を見るように切り返す。海と山が切り返されるそのあいだに、わたしたちの住む場所が横たわる。本作は人間を中心に映していながらも、その眼差しは山と海と都市の巨大な絡み合いに向けられているようにも思える。

神戸の土地が生み出す高低差そのものが映画的である、と濱口と野原は述べる。野原の言葉を借りれば、神戸は「派手なことをしなくても面白い要素がたくさんある」のだ。また、濱口には「(神戸の)場所のヌケかたが映画に向いている」と言わしめた。キャメラを向ければ、山も海も絶えず映り込み、それがそのまま映画となることを言祝ぐ街が神戸である。それを「発見」したのが濱口や野原だった。土地に住むひとにとっての当たり前の風景を、映像作家たちは特別に切り取ることができる。それは一種の「風景の発見」だ。その特別な映像をまちのひとびとが見るとき、映画とまちに心地よい循環が生まれる。撮影隊がわが街でロケをしている事実にまちへの誇りを感じたりワクワク感で胸が躍ったりするだろう。だが何よりも「カメラを向ければ映画になる」街に住んでいること自体が希望になることを『ハッピーアワー』は教えてくれる。もちろん、濱口らがまちの風景を「発見」するまでには、気が遠くなるような時間の堆積があったのだが。

 

 

 

撮りながら暮らす/暮らしながら撮る

野原は「(神戸で)生活をしないと気づけないことがあった」という。それこそ外からやってきた濱口が神戸ではじめて見たものと、長い時間をかけて暮らすことではじめて見えてきた風景はまったく異なっていたことだろう。濱口と野原は、板宿にある一軒家を借り、同じ屋根のもとで約2年間暮らした。一軒家を借りるのもたいへんなことだが、そこにはまちのひとたちの手厚い応援があった。その立役者のひとりは、「KOBE鉄人PROJECT」を牽引し、長田区では知らぬものがいない「肉のマルヨネ」の正岡健二(有限会社マルヨネ専務)だ。濱口は、なぜ自分は神戸に来て間もないうちに真っ先に「お肉屋さん」を紹介されたのか、当初はわからなかったという。しかし、濱口がいうようにそれが「まちの多孔性」であり、「お肉屋さん」こそがキーパーソンのひとりであり、神戸における文化発信の心臓部であったのだ。こうしたまちの緻密なネットワークが映画を活かすことになる。

正岡は「たまたま」持っていた自身の一軒家を濱口らに格安で提供したという(家具家電も!)。これにより撮影スタッフが寝泊まりする場所も確保できた、と野原はいう。またこの家の立地は小高い場所にあったため、山あいのなかに神戸の街並みを望むことができた。野原の部屋からの景色は、それこそ神戸の街を一望できる窓があったという。そうした日々の(もしかすると無為とさえ思われる)堆積した時間が、映画のアイデアを発酵させる。正岡はそれでも、濱口らのことを「安くつく」と言った。なぜなら濱口は「唐揚げ」を食べれば満足するからだ、と正岡は続ける。このいわゆる「唐揚げ」譚は、映画撮影における衣食住をめぐる重要なポイントを指摘している。つまり「唐揚げ」で「安くつく」ことで、まちのひとびとと濱口らのコミュニケーションを取る頻度が増えたということだ。「唐揚げ」を通じた対話の繰り返しは、映画制作者とまちのひとびとがゆっくりと互いを消化していく時間でもあったはずだ。『ハッピーアワー』に引きつけていえば、それは互いの「重心」を重ね合わせる作業である。時間をかけて、双方の核のようなものを愛撫する親密な儀式である。濱口と野原は、撮りながら暮らす/暮らしながら撮ることで、まちの「重心」に耳を傾けようとしていたのだ。

 

 

重心を「聞く」

『ハッピーアワー』を作る前段階のワークショップにおいても、本作の物語においても、一貫して「重心」がテーマとなっている。そしてこのことは、阪神・淡路大震災で甚大な被害を受けた神戸という街そのものが「重心」をめぐるさまざまな問題と向き合ってきたことを何よりも示している。暮らしながら撮る/撮りながら暮らすことは、神戸の「重心」を探ることであった。『ハッピーアワー』のなかでもワークショップをおこなうシーンがある。それが「重心を聞く」と名付けられたワークショップだが、そこで指南役の男が椅子をひとつの支点だけで立たせてみせる。男の椅子は「重心」を見抜き、絶妙なバランスで不可思議にも自立させるのだ。しかし自立した椅子は、突如大きな音を立てて崩れ落ちる。「重心」で成り立つものすべてが脆い。神戸の街の「重心」はいちど大きく揺らいだ。だがそれでもなお本作や濱口がさまざまな「重心」を探るのは、「重心」があらゆるコミュニケーションの根本にあるからだ。「重心を聞く」とは、きわめて純度の高いコミュニケーションなのである。

そもそも、「聞く」という言葉も不思議だ。話を「聞く」と書いたとき、それは話をうかがっている能動的な主体と、音声情報としての声を聞き入れている受動的な主体が重なり合っている。能動と受動はいつでもひっくり返る。こうしたことを念頭に置いたとき、濱口と野原が2013年からKIITOで約5ヶ月間おこなったワークショップは特異なものだった。参加者が関心を持つ人物にインタビューをおこない、集積した情報からその人物を「演じてみる」というものだ。ワークショップの様子を垣間見た芹沢は、異様な雰囲気を感じ取ったという。また、当時のKIITOスタッフであった松本ひとみも「参加者の抜き差しならないやりとりで、ワークショップには気軽に入れなかった」と述べる。わたしなのにわたしではない、わたしではないのにわたしである、わたしなのに他人である…「聞く」ことの多義性はわたしを分裂させ、他人をわたしへと引き入れる。「聞く」ことはこのようにして話し手と聞き手の双方に影響を及ぼす。そして、「聞く」ことで生まれる場がある。この原理は『ハッピーアワー』の基盤となっている。だがわたしたちはあらためて問わねばならない。まちの「重心」とはどこにあるのか、と。

 

 

 

「何ができるか」なんてだれも分かっていなかった

行政でも企業でも、はじめる前から結果が明確なものでなければ、思い切ったスタートを切ることはできない。そうした世界ではしばしば、明確かつ速やかに「役に立つもの」が優先され、「わからない」ことは忌避される。一方で、短期的に結果や課題解決を明確に打ち出すことを目的としていない文化芸術や、そもそも完成がいつになるのかさっぱりわからないものさえある。『ハッピーアワー』にいたっては、「何をするか、何ができあがるか」など当初からだれも分かってはいなかったのだ。そうであるにもかかわらず、神戸のまちのひとびとが濱口らを迎え入れたのは驚くべき事実だ。

 

神戸映画資料館の支配人を務める田中範子は、濱口の大学院修了作品『PASSION』(2008)を見て、彼の才能をいち早く認めた。田中は濱口の映画作品を定期的に上映し続け、まちのコミュニティに濱口の存在を伝播させた。一方の濱口は2011年に東北に移住し、東日本大震災を経験した被災者の声を掬い取った「東北3部作」と呼ばれるドキュメンタリー映画を制作した後、東京ではない場所で新たな映画づくりをはじめようとしていた。その候補地のひとつに神戸があった。田中は文化発信を積極的におこなう地域のリーダーを濱口らに紹介した。新長田でコンテンポラリーダンスの関西最重要拠点「Dance Box ダンスボックス」を運営する大谷燠や、先述した「肉のマルヨネ」の正岡らのことである。田中らは「ぜったいに神戸以外で撮らせてはならない」と確信し、新長田の居酒屋で濱口を説得したのだった。そのなかで先述した板宿の一軒家を格安で提供すること、「撮りたい場所を言えば撮れるようにする」といった援助が決まっていった。海のモノとも山のモノともしれない濱口らを「まあ、それでもやったらいいじゃない」と後押しする神戸のひとの寛容さは、濱口らも口を揃えて言うように驚くべきことだ。まちのひとびとが濱口の才能に見惚れたことが『ハッピーアワー』の原動力となったのである。

 

 

 

まちづくりの根本としての映画づくり

濱口がいうには、「まちというのはひとである」。まちづくりもまた、当然のことだが地域のひとたちの協力なしではありえない。『ハッピーアワー』では、病院で働くヒロインの一人が脚を骨折してギプスを装着しているシーンがある。病院のシーンは長田の野瀬病院で撮影されたが、なんと役者の身体に合った専用のギプスが病院側の提案で用意された。本来ならば、映画の画面にとっては「必要のない」こだわりである。だがそれは、濱口らも敬愛する映画監督の小津安二郎が、まさに画面に映らない箪笥のなかにも小道具を入れたことと図らずも重なることだった。映画は映らない部分にこそ何かが宿り、映らない部分こそが映画そのものの基調となる。『ハッピーアワー』において実際には映らないにもかかわらず、それが基調となっているものとはなにか。それはいうまでもなく、これまで述べてきた神戸のひとびとの気概とネットワークである。当時野瀬病院の事務長を務めていた林政徳は「わたしが『ハッピーアワー』を日本のなかでいちばん観た自信がある。どのシーンも覚えている」と高らかに宣言した。今回のイベントで楽しげに本作の魅力を語る林の姿は、まちづくりの根本には映画があるのだと確信させるものだった。ある地域に住んでいても、その地域のファンになることは案外難しい。だが映画づくりと映画の上映は、それが撮影された場所の魅力を最大限に伝えることができる。まちづくりが「まちのファンづくり」であることと同様に、映画づくりもその一翼を担っているのだ。

 

 

 

『スパイの妻』が生まれるとき

濱口は2016年に神戸を離れたが、野原は以後も神戸を活動の拠点にする。野原の所属する制作会社とNHK神戸放送局とのあいだで「8K映像を使ったドラマの企画ができないか」という案が出た。そこで神戸出身の黒沢清監督の名前があがった(かくいう野原と濱口は、黒沢の教え子である)。『スパイの妻』の脚本を担当する野原と濱口は、「暮らしながら」つくった『ハッピーアワー』での神戸の土地感覚を存分に発揮したという。本作に出演する高橋一生と蒼井優の住まう邸宅のシーンは、塩屋の旧グッゲンハイム邸で撮影された。黒沢曰く、この邸宅がなければ本作は成立しなかった。そのことは本作を観たひとならば納得するだろう。

まちづくりと映画づくりはどちらも「まちのファンづくり」そのものだ。しかし、これが成立するためには、まちが映画制作者に愛されるものでなければならない。『ハッピーアワー』から『スパイの妻』までの流れで共通するのは、映画制作者が神戸の魅力に取り憑かれたことであり、神戸の魅力を「発見」してくれたことだ。「まちで映画が生まれる」時とは、「映画でまちが生まれる」時でもある。なによりも2本の映画が生まれた奇跡を下支えした立役者が、まちのひとびとであることはあらためて強調しておかねばならない。つぎは、わたしたちが神戸を「発見」する番だ。

 

写真:中村紀彦

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