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阪神・淡路大震災から30年。この間、平成16年から17年にわたる「震災10年 神戸からの発信」記念事業で、被災した一般市民が自らの足と目線で復興途中の街と人を取材し、420万部もの手作りの新聞を発行したことは忘れることはできないし、自身それに関われたことを誇りに思っている。

震災のときに世界中から寄せられた支援に感謝し、学んだ経験や教訓、成果と課題を市民の手で発信しようというユニークな試みで、市民と事業者・行政が一体となった一大キャンペーンだった。

名称は市民手作り新聞「KOBEハートだより」。タブロイド判カラー8ページで、市内各地で開かれた記念行事や復興途上の街の話題、さまざまなイベントを取材して掲載した。

スタートは震災10年を翌年に控えた平成16年秋だった。毎週水曜日の夕方になると三宮・センタープラザ13階の「震災10年 神戸からの発信」推進委員会事務局に神戸市の呼びかけに応募した10代から70代の男女33人の市民レポーターが集まって編集会議を開いた。

大学生やサラリーマン、主婦でほとんどが素人だったが、たまたまその中にいた全国紙の編集OBと地元紙で新聞づくりの経験があった私がデスク業務を引き受け、全員一丸となって取材に走り回り、原稿を書き、写真を撮って紙面づくりをしたのである。

「もっと参加者の声がほしいなあ」「この写真は人をもう少しアップして」と注文が飛び交い、追加取材しては書き直すなど大騒ぎしながら紙面製作。記念行事やお知らせ、市民からの投稿も加えて合計7回、420万部を発行し、市内全戸に届けた。

市民の目線と行政(推進委員会)が考えている広報とでは時に軽い衝突も起きた。喧嘩腰ではなくソフトタッチの押し問答だったが、議論を重ね、ほぼ2カ月ごとに60万部発行した。

それまで出会ったこともなかった人たちが不思議な縁で結ばれた“にわかジャーナリスト集団”で、新聞づくりだけでなく、震災直後から神戸在住の外国人に生活情報発信をしていたFM放送にも飛び入りで出演し、タウン誌にもスタッフ5人の座談会を載せてもらった。

平成17年11月の最終「ハートだより」第7号では、推進委員会の加藤恵正委員長・兵庫県立大学政策科学研究所所長の「神戸からの発信事業が全国、全世界の災害に強いまちづくりにつながることを願う」というメッセージと、同じ16年秋に起きた新潟県中越地震から1年の復興記念行事に参加したボランティアの報告を掲載して締めくくった。

1年間の発行作業を終えて、スタッフ全員が苦闘した思い出をまとめて「スタッフ交遊録」を作成した。「『読んだよ』という読者の反響が嬉しかった」「手弁当の参加だったが、貴重な体験でした」と、それぞれの心情を綴って職場や家庭に帰って行った。

その日から早くも20年が過ぎ、感慨を胸に震災30年を迎えている。

タイトル

市民が作った震災新聞

投稿者

橋本吉博

年齢

82歳

1995年の居住地

神戸市須磨区

手記を書いた理由

阪神・淡路大震災では死者6,434人、行方不明3人、負傷者は4万人を超えました。果たして美しい神戸の街が元に戻せるのか、という絶望の中から始まった復興事業。その途中の「10年目の報告」を、被害をもろに受けた市民の手で記録してもらおうと神戸市が呼びかけたユニークな試みだっただけに多くの人に知っていただきたかった、参加した人たちも同じ気持ちに違いないという思いからスタッフの一員として手記を書きました。