30年目の手記について
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継続という柔らかい事実そのものが、今の私を支えているのかも知れない。
教室は深く静かな海になった。担任の私、生徒もみな、この狭い同じ海に被災した友達がいるとは考えもしなかった。
もう10年ぐらい西宮には帰っていない。つらくてあまり行く気になれないのだ。
こんなに近いのにパラレルワールドのようで、被災者である自分のしんどさが身にしみた記憶がある。
救援物資は、水、パン、カンパンやカップメン等が多かったが、アメリカから、フレッシュなオレンジも届いていた。
消える気配がない「真っ赤な夜空」に見入ってしまう。「色がきれい」と思う。そう思ってはいけないと心の中で思う。
最後に私が希にしてあげられる事かもしれません。
震災直後に『ドンキーコング』に耽っていた無気力な青年が、なぜコミットメントに転じるようになったのか。
30年、早かった? 長かった?
私のこの30年は長かったと思う。
震災を経験してから私はいつも「彼の分も生きていきたい」と、思っています。
あったはずの未来へ帰ることはできない。
なす術など無く「長女は死んでしまった」と覚悟せざるを得ない感情になってしまった。
私は生き延び、彼らは亡くなりました。
あたたかい気持ちになるとともに、本当にここで震災が起こったのだと実感し、心が痛みました。
なので私は母から聞いたこの話を子供や孫が出来たら話してあげたいなと思います。それが私のできることだと思うので。
1月17日は阪神・淡路大震災が起こった日であり、私の祖母の誕生日だ。
「黙祷」と放送スピーカーから流れると教室は静寂に包まれ、息が詰まるような緊張感が張りつめる。
母の母、私の祖母が子供たちの元に駆けつけて、上に覆い被さる。揺れた時間は僅か15秒だったが、5分ぐらいに感じたという。
どう生きればいいのか考えあぐねている私に、この街に生きる人達の姿が、その答えを指し示してくれた。
「でも、経験したんでしょ」
「まあ、大阪にいたけど……」
車中では、1台しかない「緑電話」の前に常に10人程度の行列が出来た。
恐る恐る潰れた屋根の上へあがって、てっぺんと両脇に綱をかけて、それから女も混ざってみんなでそろそろと引っ張る。
下校途中の道沿いに犬を飼っている家があった。柵から顔をのぞかせるので、時々指をなめさせてやったりしていた。地震とともにその犬はいなくなった。
なぜ避難所にいるかもしれないなどと言ったのか。なぜ塀の中を見てみようとしなかったのか。
見覚えがある思い出の品などが目に入ったら出来る限り取り出します。あのあたりにアレがあったなどの情報も遠慮なく教えてください。
停電で情報も入らず、この地で起きている災害にしばらくは気づかなかった。
「なんなん……なんなん……なんなん……」を叫びながら、少しずつ明けていく街を震えながら走った記憶だけ……「なんなん……なんなん……なんなん……」
バタートーストを焼いてもらい、味もしないのにかじりながら、テレビに映る倒壊した阪神高速を眺めていた記憶がある。
全国から医療チームが178派遣されたが、残念ながら臨床検査技師の派遣は皆無で全く検査ができない状況であった。
18歳のときに社会に何もしなかったことへの罪ほろぼしの要素もないではない。
あの時、0~6か月くらいで使えそうな衣類をすべて送ってしまったので、当時息子が身に着けていた物が、我が家には一切残っていない。
これまでの「きれいごと」は何一つ通じない。
正直なところ10年間はなかなか人前で震災のことを話す気になれず、思い出すことさえも嫌でした。
震災後のコミュニティは、遠くの親戚より近くの他人ということを実感・実証させてくれました。
私はむしろ、そのような話をどのように語り伝えようとしているか(how)に焦点を当てて、書いてみたいと思います。
ありと
凡
あら
ゆる野菜が下処理されてゆく。生きているという事は素晴らしい事だ。
私は今年能登大地震の余波を経験しました石川県加賀市から一筆をしたためております。
10年ぶりだろうか。当時のスケジュール帳にある電話番号に思い切ってかけてみた。
巨大な怪物の背中から振り落とされるような激しい揺れが続き、現実であることを自覚しました。
チラシの裏をメモにして、道を尋ねる人々に地図を即座に書いて渡している。
それまで出会ったこともなかった人たちが不思議な縁で結ばれた“にわかジャーナリスト集団”