30年目の手記について
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炊き出しで出来上がった豚汁を近くの民家に届けると、家財がミキサーで混ぜられたような家の方に「悪いけど、これ持って帰って」とアンパンを渡された。「冷たいおにぎりと菓子パンはもういらんねん」そう言われた。
男性が焼きあがったばかりの食パンを何本も抱えて、一山ずつちぎり、子どもたちに配っていく。チイちゃんのお父さんだ。切り口から上がった湯気の光景を覚えている。
「えらいこっちゃ、これからどうやって生活するんやろ」
街が傷つくことで、なにか欠けてしまった気がしました。
安心な場所にいきたい、あんな怖い思いをしない場所があるならできるだけそこにいたい、頭の片隅でずっとそう思っていた。
当時は忘れないと思っていたことを忘れていることに気付いた時にはあんなに大変なことも忘れてしまうのだとショックだった。
とにかくボランティアに行きたいと思う方、どうぞ行ってください。こんな人が必要なんてありません、いろんな人が必要です。
震災を経験していない自分が、タウンガイドで観光客に震災のことを説明する行為に違和感を抱えていた。
しんどくなったのは半年から1年経過した後になります。
私はまだ母のお腹の中にいました。
私は被災者だなんてとても言えません。けれど震災なんて起こらなければ、これまでのことや将来のこと、18歳なりにいろいろなことを考え、きっと誰かと語り合ったりしていたのだろうと想像します。
被災地の中でも被害の度合いは異なり、ずっとモヤモヤした思いを抱えている。そうした人も実は多いのではないか
まがりなりに被災者であり、同時に取材者であるという複雑な、屈折した立場に置かれた。
人は自分が経験したり身近な人に話を聞いたりしないと、災害を自分事としてとらえるのが難しい。
ホンマ不思議なまでに、その震災の話を、ポジティブに変換し、そして二人の門出を祝すに相応しいスピーチとして、見事に昇華させていくのです。
1人で持ち上げられない梁は柱は、2人なら、3人なら、10人なら持ち上げられた。
避難先の親戚の家で、支援物資でもらったノートへ幼いながらにテレビが流す別世界ぶりの憎しみ、生きることや明日への不安を書き殴った。それは、誰にも見せずに捨てた。
両親ともひと言も全てにおいて震災のせいだと言わなかったが、震災がなければせめて平均寿命近く生きられただろうに
関東大震災以来の大地震かもしれない。瞬時にこの経験を話す機会が必ず来ると直感した。
私のように、子育て中で休職中、家は無事、父親の仕事もあるため昼間は、母と子どもが不安な日々を過ごしている、そんな人たちが集まって輪が広がった。
前の家はペッちゃんこ。三叉路のブロックは倒れてる。「なんちゅうことしてくれんねや!」 なんか自然に対して、無性に腹立ちを覚えた。
先生、ダメだなぁ、奥さんさすがだね。本当に天使にならなくてよかったね。
地震の被害の大きさと建物の真新しさのグラデーションを感じるようになり、神戸の人ではない私でも、たまにさびしさのようなものを感じるようになった。
真っ暗な中、いくつかの場所で大火災が起きているのが見えた。上司に「泣くな」と一喝される。
ある日子供と歩いていて、ふと、この辺りは新しい家ばかりだなと気が付きました。 あっ……と、その時、私は、はじめて震災に触れた気がしました。
心のケアという言葉の前にできることを考えてみる大切さを感じています。
春が訪れる頃、ようやく仮住まいが見つかった。7人揃って、新しい生活の第一歩を踏み出せる。喜びはひとしおだった。
家もビルも倒壊して、はるか海の方まで見渡せた。そこかしこで、炎があがっている。母が、「戦時中の焼け野原を思い出す」と無表情に呟いた。
「パジャマのまま裸足で……」という人もいたようで、自宅が炎上の中「命の確保」だけを考えての判断であった
次々運ばれてくる水、お茶、スポーツドリンクをごくごく飲んだ。そして気を失いつつ、ありがとうございましたと心で言った。
絵には絵の力、絵だからこそ伝えられるものがあると信じています。
「阪神大震災」と聞けば今も私の中で鳴っているサイレンの音。遠い所から神戸の人を助けに来てくれた音。助けても助けても終わらない救援の音。
口を広げ床に置く。ゴミ袋二重で腕2本にはき、汚物を抱え込んで入れるという提案。素直に実行。余震で中断。
お父さんがワーッて言いながらマットレスごと隣の部屋に滑っていって、揺れが収まった後にパジャマの上からスキーウェア着せられて、靴下2枚履きなさいて言われた。
あの日、お腹の中にいた子が神戸の再生を願う希望の歌を歌っている。
毎年、1.17は東遊園地にあの時間に訪れるようにしている。それは、亡くなった友達があの時間にあちらから此岸に戻ってくるような気がして、その時に迎えて「貴女を忘れていないよ」と言いたいから。
戦災や天災の有無にかかわらず、同じ場所に暮らすということの困難さを改めて感じる。私も父が被災し失業した当時の年齢になった。
やがて空が白み窓を開けた私の目に柱が傾き瓦が落ち潰れた数々の家屋が一帯に広がる目を疑う景色が飛び込む。
震災や万博のヒダは大きさに関係なく、いろいろな犠牲を伴ったのだと思う。しかし、それが都市の特徴であり、そこを魅力に感じる自分もいる。
35歳の彼女、37歳の長男の姿を思い浮かべることができない。私と妻にとって7歳のまま、5歳のまま。あの震災が時間を止めてしまった。
「おもしろそう……」 その日から連日伝えられた被災地の映像に、幼かった私は思わずそう言ってしまった。
足はがくがくするのみでただごとではない地震という認識はあるものの時間とともに身重の妻が腹痛を訴え、とにかく私にできることは何かと考えると、すまして食卓の椅子に座って新聞を読んでいる姿を妻に見せ続けることしかなかった
大阪の家の被害は、猫のお皿の水が溢れただけだった。
東日本大震災が起こり、震災が阪神・淡路だけを指すものでなくなり「阪神・淡路でも震災はあったよ」と言いたい気持ちになりつつ、30年経とうとするいま、やはり私は阪神・淡路大震災について何もわかっていないとも思う。
私の阪神・淡路大震災の記憶は赤色です。この光景は一生忘れることが出来ないです。
出身地を聞かれた時に「神戸」と言うと、「地震経験した?」「親死んだ?」と言われショックを受けました。何となく地元に帰りたいと、就職は神戸に戻りました。
ご自身の経験を口にしたり書き記したりして伝わってきた生のことばは、熱を持ってしっかりと受け継がれていきます。助け合って生き抜いてきた人が今も沢山いるまちが神戸なのかなと感じています。
近所の人たち、レスターとスティーヴに助けを求めた。そして共に瓦礫を一つ一つ取り除き、ついにデビーのたどり着き、彼女を引き上げることができた。
震災の1年前に結婚しているので、震災後の30年と私たちの結婚生活はほぼ重なっている。
変わったところ、変わらないところを数えながらたどり着くころ、これまでと違う感情が芽生えていることに気づいた。
私は改めて当時の厳しい状況を知るとともに、「ほんの豆粒ほどでも、命は命だ。当時の自分を取り巻く状況を知って、語ってもいいんだ」と背中を押されたような気がした。
その時は父が死んだことや家が潰れたことのショックよりも、父を早く取り出さなくてはという思いが強かったかもしれない。
震災をきっかけに移転したお店、再建された建物、なくなった街並みなど、まちを歩くほどに地震による地層に気がつくようになる。
震災直後に彼女に電話をしていたら、電話がお話し中でなかったら……もっと早くに救出に行けただろう。
突如少年は、映画『ダイ・ハード』の真似事を試みる。デスクチェアで窓ガラスを壊して、外へ脱出を試みる。
このたびの経験を、ただ私達の代だけの記憶だけに終わらせてよいのかどうか。
そしていつ起こるかもしれない災害にむけて災間を過ごしていくのだろう。
記憶が飛んでしまってどうやって子どもを布団から引き出したのか、その場から二人して逃れ、圧死を免れたのか全く覚えがない。
それでも「戦争よりましや」とポツリと云った。
「怖い」という思いを一人で抱え込まず、思いを共有できる環境づくりが防災の第一歩です。
「平成何年生まれですか?」「えーと、平成6年ですね」「あら、じゃあそのときこの辺にいたの?」「いや、出身と育ちは宮崎なので全く……」
そうだ。私はあの時、両親と一緒に未来を考えたかったのだ。
祖父母が亡くなったこと悲しかった。もっともっと一緒に悲しめば良かった。
母が語る「あの日の神戸」、つまり、自分が生まれるたった3年前の神戸は、私が育った「神戸」からは遠く離れたどこかの町の話のように聞こえた。
かよちゃんとの思い出を皆の前でする事でかよちゃんの死を受け止めなければいけない、そんな風になんとなく感じ「話すのは嫌だ!」と強く拒んだ事をはっきり覚えている。
メモリアルランナーとして走った私の走りを当時10歳だった息子の記憶の片隅に残っていたのかもしれません。
生きることは、どんな人にも闘いだ。どんな人にも悩みがある。大人も子供も。
周囲には震災後も人々を助け続ける方々がいます。
10年ぐらいはあっという間です。20年ぐらいでやっと復興したなと思いました。30年経つともう知らない人ばかりです。
私の隣人であり友人でもある、ヴィクトリア出身のカナダ人が隣から現れ、私たちは抱き合った。
震災10日後、1月27日突然Kさん母子3人がやってきた
玄関の方で、何や音が聞こえるんや。行ってみたら近隣から多勢の人が集まって来て、玄関のガラス戸叩いとるんや。マスターキーで開けたら、ケガ人見たってくれ言う人ばっかりや。
「ここから上、何にもあらへんねん」
なるほど高速道路が途中で切れて、漆黒の夜空が見えた。倒壊部分は撤去されていた。
被災者たちには最初の巨大な揺れで一瞬覚悟した「死」から生還した、底抜けな明るさがあったのである。
冬の渇水期とはいえ、震災直後、雨や雪がほとんど降らなかったのは、復興の道を歩む身に幸いだった。平成6年まで十数年続いた暖冬から一転、平成7年は寒い冬だった。しかし歩を進める私に、寒さなど感じなかった。
「水ですねえ。水さえあったら、ほぼ通常に戻せます」
「ああ、水がのうて困ってはるやろ。持って行き、持って行き」
と、店主のオジさんは快くゆずってくれた。
何円で買ったか覚えていない。丁寧に礼を言うと、「大変やろうけど、頑張ってやあ」と、オジさんは励ましてくれた。
「エラいことでしたなあ」と声をかけると、「ハァー、もう住まれへんよ」
と、意外に明るい声で返事をしてくれた。
いつものようにあそこで寝ていたら、私は無傷では済まなかっただろうと、その時それは考えなかった。なぜか気持ちが、ものすごく前向きなのである。
同じ場所に被災マンションを建替えることなど、並大抵では成し遂げられる事業ではないことは断言できます。
友子は好きなブティックの仕事に就き、上司に期待され、友人に恵まれ、華やかな青春を過ごしていた。短い生涯であったが凝縮した25年であったと思うことで心の支えとしてきた。
「甘いなあ、へそくり出した甲斐があったわ」
大勢はこの理事会案に賛成だったが、建替えしか認めない一部の住民が理事会と対立し、賛成票は規定数に届かず、結果、この議案は否決されてしまった。
走った
光
ひ
の美しかったこと、この世の光とは思えない、それはそれは美しい光でした。
2ヶ月後、阪神青木駅から梅田まで開線。タオルと石けんを持って、梅田へ。スカートとヒールを見て、別世界やった。
継続という柔らかい事実そのものが、今の私を支えているのかも知れない。
教室は深く静かな海になった。担任の私、生徒もみな、この狭い同じ海に被災した友達がいるとは考えもしなかった。
もう10年ぐらい西宮には帰っていない。つらくてあまり行く気になれないのだ。
こんなに近いのにパラレルワールドのようで、被災者である自分のしんどさが身にしみた
救援物資は、水、パン、カンパンやカップメン等が多かったが、アメリカから、フレッシュなオレンジも届いていた。
消える気配がない「真っ赤な夜空」に見入ってしまう。「色がきれい」と思う。そう思ってはいけないと心の中で思う。
最後に私が希にしてあげられる事かもしれません。
震災直後に『ドンキーコング』に耽っていた無気力な青年が、なぜコミットメントに転じるようになったのか。
30年、早かった? 長かった?
私のこの30年は長かったと思う。
震災を経験してから私はいつも「彼の分も生きていきたい」と、思っています。
あったはずの未来へ帰ることはできない。
なす術など無く「長女は死んでしまった」と覚悟せざるを得ない感情になってしまった。
私は生き延び、彼らは亡くなりました。
あたたかい気持ちになるとともに、本当にここで震災が起こったのだと実感し、心が痛みました。
なので私は母から聞いたこの話を子供や孫が出来たら話してあげたいなと思います。それが私のできることだと思うので。
1月17日は阪神・淡路大震災が起こった日であり、私の祖母の誕生日だ。
「黙祷」と放送スピーカーから流れると教室は静寂に包まれ、息が詰まるような緊張感が張りつめる。
母の母、私の祖母が子供たちの元に駆けつけて、上に覆い被さる。揺れた時間は僅か15秒だったが、5分ぐらいに感じたという。
どう生きればいいのか考えあぐねている私に、この街に生きる人達の姿が、その答えを指し示してくれた。
「でも、経験したんでしょ」
「まあ、大阪にいたけど……」
車中では、1台しかない「緑電話」の前に常に10人程度の行列が出来た。
恐る恐る潰れた屋根の上へあがって、てっぺんと両脇に綱をかけて、それから女も混ざってみんなでそろそろと引っ張る。
下校途中の道沿いに犬を飼っている家があった。柵から顔をのぞかせるので、時々指をなめさせてやったりしていた。地震とともにその犬はいなくなった。
なぜ避難所にいるかもしれないなどと言ったのか。なぜ塀の中を見てみようとしなかったのか。
見覚えがある思い出の品などが目に入ったら出来る限り取り出します。あのあたりにアレがあったなどの情報も遠慮なく教えてください
停電で情報も入らず、この地で起きている災害にしばらくは気づかなかった。
「なんなん……なんなん……なんなん……」を叫びながら、少しずつ明けていく街を震えながら走った記憶だけ……「なんなん……なんなん……なんなん……」
バタートーストを焼いてもらい、味もしないのにかじりながら、テレビに映る倒壊した阪神高速を眺めていた記憶がある。
全国から医療チームが178派遣されたが、残念ながら臨床検査技師の派遣は皆無で全く検査ができない状況であった。
18歳のときに社会に何もしなかったことへの罪ほろぼしの要素もないではない。
あの時、0~6か月くらいで使えそうな衣類をすべて送ってしまったので、当時息子が身に着けていた物が、我が家には一切残っていない。
これまでの「きれいごと」は何一つ通じない。
正直なところ10年間はなかなか人前で震災のことを話す気になれず、思い出すことさえも嫌でした。
震災後のコミュニティは、遠くの親戚より近くの他人ということを実感・実証させてくれました。
私はむしろ、そのような話をどのように語り伝えようとしているか(how)に焦点を当てて、書いてみたいと思います。
ありと
凡
あら
ゆる野菜が下処理されてゆく。生きているという事は素晴らしい事だ。
私は今年能登大地震の余波を経験しました石川県加賀市から一筆をしたためております。
10年ぶりだろうか。当時のスケジュール帳にある電話番号に思い切ってかけてみた。
巨大な怪物の背中から振り落とされるような激しい揺れが続き、現実であることを自覚しました。
チラシの裏をメモにして、道を尋ねる人々に地図を即座に書いて渡している。
それまで出会ったこともなかった人たちが不思議な縁で結ばれた“にわかジャーナリスト集団”