阪神・淡路大震災は、86年の私の人生の中でも想像を絶する衝撃的な出来事でした。あの大災害からまもなく30年。長い年月が過ぎ去ってもきのうの事のように鮮明に思い出されてきます。
あの日の朝、私はまだ布団の中で熟睡していましたが、突然の大きな揺れに一瞬夢の中の出来事かと思った瞬間、更に巨大な怪物の背中から振り落とされるような激しい揺れが続き、現実であることを自覚しました。激震と暗闇。逃げる余裕など全くなく、布団にしがみつき、身を任せるしかありませんでした。
頭上から次々と物が落下。本箱が倒れてガラスが飛散。身体が物に埋まっていくような恐怖と重さを感じた時、それは死を覚悟した瞬間でもありました。その時、近所のマンションの窓々からは言葉にならない悲鳴や叫び、奇声を耳にしました。
その後、揺れが収まったのを確認し、妻と声をかけ合い外へ出ようとしましたが、ドアがゆがみ、すぐには外へは出られませんでした。マンションは建物こそ全壊はまぬがれたものの半壊。部屋のあちこちに亀裂が。
やがて夜が明け外へ出てみると、変り果てた街の惨状でした。隣の義母の二階建ての家は押しつぶされて1階になり、くずれ落ちた1階に義母は閉じこめられていました。義母を救出するために畳を持ち上げ、床板を外すなど、近隣や通りがかりの人までかけつけて下さり、多くの人の協力を得ることが出来ました。義母は、柱や梁で出来た空間にいて奇跡的に助かりました。
震災では、多くの尊い命や家が失われ、失ったものの悲しさ、寂しさは計り知れないものがありますが、人の優しさや温かさ、協力すること、人と人のつながりの大切さを気づかせてくれました。
震災後は、電気・水道・ガスのライフラインが止まり、とりわけ困ったのは水でした。断水の間は自衛隊の給水に頼り、トイレも風呂も仮設。不自由な生活は約2カ月に及びました。ガスの復旧には、更に多くの時間を要し、全国各地のガス会社の応援を得ての懸命の復旧作業が続き、東灘区のわが家のガスが使えるようになったのは70日ぶりのことでした。
あの大震災から神戸は立ち直り、超高層ビルやマンションが増え、街の様相はすっかり変わりました。しかし、近い将来南海トラフによる大地震が発生すると言われています。
私は高層ビル内での揺れの大きさ、建物内やエレベーター内での閉じ込め、大火災等を考えると、今までとは違った形の災害が起きるように思えてなりません。
震災30年を改めて「災害への備えを考える日」として、家庭や学校、地域が一丸となって防災対策を強力に推し進めていきたいものです。
タイトル
大震災の教訓を生かしたい
投稿者
貴島裕
年齢
86歳
1995年の居住地
神戸市東灘区
手記を書いた理由
私は阪神・淡路大震災を神戸市東灘区の自宅で遭遇しました。この大震災を経験した者だからこそ、その体験と教訓を、とりわけ若い世代の人達に伝えたいという強い思いがあります。
私は今86歳。太平洋戦争・大震災・「急性大動脈解離」の大手術を乗り越えてきました。今生きていることが不思議なくらいで、命の大切さを人一倍感じています。震災の時には多くの人々から支援がありました。感謝の気持ちも決して忘れません。