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今年の元旦早々に能登半島を襲った地震は神戸にいた私たちも揺れを感じた。すぐに20年以上前の阪神・淡路大震災を思い出した。体が憶えているのだ。そして、かつて仮設住宅のLSA(生活相談員 ※)として勤務した仲間のことを思い出した。10年ぶりだろうか。当時のスケジュール帳にある電話番号に思い切ってかけてみた。

電話の相手は、すぐに私の声に気づき「地震に気づき誰かから電話が掛かると予測していた」と返事してくれた。そして、他の仲間とも話して「一度会おう」と話が進み、2月3日の節分の日に再会した。

当日、幹事役を任せてもらった私は「どんな会になるのか? 20年ぶりの人もいるので和やかな同窓会みたいでもいいな」と考えていた。久しぶりの再会を喜び合いワインの乾杯のあと各々が近況を話し始めた。

現在も障害者を支援する仕事を続けている方は、ご自身の娘さんが首から下へ神経がいかず身体を動かすことが出来なくなる難病に罹り身の回りのことを助けておられた。「共倒れにならないように前向きに働き続けていかなくては」と語ってくれた。

私などよりずっと先輩にあたる女性は、仮設住宅が建設されてすぐに相談員を引き受けられ手探りで住民と向かい合ってきた。住民の中には反社会的勢力の者がいて対応に苦労されたそうだ。私たちが派遣された時には彼女らの苦労がマニュアル作成され、随分と助かった。その方は、「神戸の地震の時と今度の能登の地震は違う。復興は難しいよ」と言われた。私たちLSAの役割は住民同士の助け合いを期待してのコミュニティづくりが要だった。私たち神戸の時は、みんなも40代、50代の働き盛りだった。気持ちも身体も元気だったからみんなで乗り越えてくることが出来た。60代、70代になった今、地震や津波がきたら「もうしんどいよねえ」と誰もが言った。

能登はどうだろうか? 集落のコミュニティは存在すると感じ、ただ集落も高齢化しているだろうと考える。町を元に戻すためには暮らしが変わらなければ仕方がないのではと心配している。神戸の時に3年半程仮設住宅の住民と関わってきて痛感したことは、誰もが住み慣れた家とその近所のお店、そして友人、家族の近くで暮らすことを望んだことだ。

神戸のLSA事業は、社会福祉士のソーシャルワークを基礎に行われた。今は亡き重野妙実さんが司令塔だったからだ。その後に国が始めた介護保険制度は、ケアマネージャーにソーシャルワークを求めてきた。ケアマネージャーや、社会福祉士たちは、コミュニティづくりを実践出来るはずだ。国は、能登のコミュニティ再建のキーマンに彼らを位置付けて仕事が出来るように環境を整えて欲しい。

※編注:ライフサポートアドバイザーの略。生活相談員や生活援助員のこと。

タイトル

地震に想う

投稿者

福原正義

年齢

61歳

1995年の居住地

神戸市兵庫区

手記を書いた理由

私は神戸の震災時、老人ホームに務めて2年が過ぎた頃だった。地震が起きた当日から職場へ泊まり込み、お年寄りの介護と生活用水の調達が職務だった。私の自宅は、全壊しており自身が被災者だった。そんな私が、仮設住宅のLSA(生活相談員)に任命されて仮設住宅の住民と共に3年弱を過ごした。
そして、今年の元日に能登の地震を神戸の揺れで知り、誰かと共有したいと思い、かつてのLSAの友人に電話した。そしてLSAの仲間と同窓会のような再会が出来た。そんな私は能登の当事者では無いが、「30年目の手記」の募集を知り、文章を書いてみようと思った。