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中央市場へ仕入れに行く途中だった。道路の下から突き上げられる、錯覚に感じた。ラジオから発せられた言葉は「地震が発生しました。直ぐに車を道路の左に寄せて下さい」。僕は急いで車を道路の左寄りにして止まった。僕が、もし15分遅く車庫から出発していなかったら僕は死んでいたと思った。車庫では他の車はつぶれてしまっていた。長い避難生活の後、僕は仕事探しに奔走した。家も店も失くしてしまった僕は店の再建をあきらめた。店の再建には多くのお金が必要だった。しかし55才を過ぎた僕には、なかなか仕事はなかった。僕は決してあきらめなかった。それは八百屋時代に植えつけられた、お金の大切さや汗を流して働く喜びなど両親から学んだものであった。

僕の仕事に対する情熱や思いなどが通じたのか、その後、色々なアルバイトに就く事が出来た。真夏の須磨海岸でのゴミ拾い。一年間のみの小学校での体育補助。シヤトル船のロープの受け渡し。観光地でのコンシェルジュ。海上保険会社のポリシーの配達。一流フレンチレストランでの調理補助。青果店でのラップ包み。カフェレストランでの洗い場。スキー場での調理補助など様々なアルバイトを経験する事が出来た。そしてアルバイトを通じて多くの事を学んだ。どんなに汚れる仕事やどんなに格好の悪い仕事でも必ず世の中に役立っている事だった。そして又、一つのアルバイトが必ず次のアルバイトに役立っている事だった。現在84才になった僕は今もグリルでアルバイトをしている。僕が高齢ながら採用された、ただ一つの理由は、とても野菜に詳しいというだけだった。僕の調理台の上には多くの野菜が若いコックから持ち込まれる。そのほとんどが20代、30代の若いコックばかりだ。僕はそれらの野菜を水を得た魚のように、てきぱきと下処理してゆく。それを見たシェフは若いコック達に向かって言う。「おーい、お前ら84才に負けているぞ」と。僕は野菜の特長をすべて知り尽くしている。この野菜はどのように下処理すれば正確に早く出来るかという事を知っている。僕は野菜の下処理をしながら、いつも父と母に感謝している。八百屋に生まれて良かったと思っている。八百屋は神戸の大地震で失くしてしまったが、今は、その事を生かしてがんばっている。

僕は今でも思う。自然災害で起こったものは仕方がない。人間はそんなに弱い者ではない。常に前を向いて生きてゆかねばならない。亡くなった人々のためにも生きてゆかねばならない。それが亡くなった人々への恩返しだ。僕は毎朝午前5時半に起きる。僕の仕事は午前7時から午後12時迄だ。玉ねぎの皮むき、マッシュルームのスライス、メークインの皮むき、人参のカット、キャベツの千切り、アスパラのはかま取り、きのこ類のさばき、セルリの皮むきなど、ありとあらゆる野菜が下処理されてゆく。生きているという事は素晴らしい事だ。今改めて思う。

タイトル

アルバイト人生

投稿者

玉置順三

年齢

84歳

1995年の居住地

神戸市中央区

手記を書いた理由

人間は時が経つと忘れてしまう。忘れられるから生きていけると思う。しかし僕の人生の中では決して忘れる事が出来ない。それが神戸の大震災である。もし僕に大震災が起こらなかったならば僕は一生八百屋で終わっていたであろう。しかし大震災に遭ったため僕の人生は一変した。20年間の僕の人生はアルバイト人生になってしまった。その事を悔いている訳ではない。僕はいつも前向きである。起こってしまった事は仕方がない。いつも前を向いて生きてゆかねばならない。それが人生なのである。