30年前、当時私は7歳でした。この「30年目の手記」には、他にどのような文章が掲載されているのでしょうか。もし当時の記憶についてのエピソード(what)が多いのだとしたら、私はむしろ、そのような話をどのように語り伝えようとしているか(how)に焦点を当てて、書いてみたいと思います。私がこの文章で伝えたいのは2点あります。1点目は「悲しみの押し付けにしない語り部」、そして2点目は「語り部としての通訳実習」です。
まずは1点目についてです。震災について語るとき、ある時までは「こんなにひどい目にあったんだ」という表現の仕方をしていました。悲しみを押し付けようとしていました。しかしこれで自分の気持ちはスッキリしても、聴いてくれる人の減災意識はどこまで向上するのでしょうか。
自分の話をして終わりではなく、「では未来を生きる皆さんは、どのように毎日を過ごしていきたいですか?」と問いかける語り部を展開したいと考えています。阪神・淡路大震災のアーカイブ映像は、奇跡的に多く残されています。QRコードにスマホをかざせば映像が見られるようにさえなりました。映像は語り部と同じくらいのインパクトがあります。さらにインターネットに情報は溢れています。であれば私たち被災者は、悲しみを押し付ける語り部から、未来の世代と一緒に減災を考える対話へとシフトすべきだというのが、私の考えです。
2点目は「語り部としての通訳実習」です。私は今、会議通訳者として仕事をしつつ、京都の大学で通訳を教えています。講義の総仕上げとして、校外通訳演習を実施します。校外で通訳を練習する場所として私が選んだのが、神戸です。この実習では私が地元神戸のツアーガイドになり、私のガイドを学生が英語に通訳するのです。
京都の大学生ですから、神戸に来ることはあまりありません。ですので、神戸の歴史・産業・文化を伝えるだけでなく、1.17についても話すようにしています。教室の講義だと寝てしまうかもしれませんが、校外演習では神戸港震災メモリアルパークまで行き、傾いた電灯など当時の爪痕を見せます。その後は震災について語り、学生は必死にメモを取り、英語に訳していきます。そこに聴き手としての聴衆はいません。語りを集中して聞いて、メモを取り、通訳する学生こそが聴衆です。通訳がうまくできているかが大事なのではなく、通訳を通して、震災のことを深く記憶に刻み込むことが目的なのです。
このように語り部には、何を語るか(what)もさることながら、どのような形で語るか(how)も大切だと思います。一被災者から父親へ、そして教壇に立つ身となった今、より多様な語り部のあり方が広がっていくことを願っています。
タイトル
通訳教育で震災を伝える
投稿者
りょうへい
年齢
37歳
1995年の居住地
神戸市長田区
手記を書いた理由
妻がある日、「30年目の手記」について教えてくれました。私は小学2年生の時に震災を経験しました。今は大学で講師をしています。一回り年下の世代に何かを教える時、阪神大震災について、ことに触れて話すようにしています。それは自分の経験を人に伝えて次の震災に備えてほしいというのが一つですが、一方で自分の為に話している側面もあります。毎年1月17日には自分の思いを文章や動画にします。神戸市の語り部イベントに参加することもあり、震災から30年目の気持ちを整理する良い機会と考え、手記を書きました。