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震災では形ある多くのものを一瞬にして失いました。

しかし一方 見えないものこそ大切なものと教えられ 私を人として成長させてくれました。

誤解を恐れず話しますが震災前の私は、男は仕事だけをしていれば良い その思いだけで朝5時起床 帰宅は11時、12時という生活を続けていました。

誰もが予想をしなかった震災が起こり、先ずは倒壊した旧自宅の片付け。

皆で手を合わせ片付けをする中で仕事は家族があってこそ・家族がいればどんな困難も乗り越えられる・家族の大切さを教わりました。

次に大切なものは近隣の人々との助け合い・心のふれあい・絆でした。

震災後のコミュニティは、遠くの親戚より近くの他人ということを実感・実証させてくれました。

この事がそれからの私が生きていく上での大きな希望と財産になりました。

30年前を振り返りますと、近隣コミュニティを育んでいたのは小さな商店だったと思います。

住んでいた(六甲新道商店街)でも300m程の間に、しもた屋(見た感じは普通の家で1階は商店、2階は住居)、寿司、履物、スポーツ、電気、文房具、牛乳、洋服、写真、ケーキ、お好み焼き、菓子、薬局、美容院、八百屋、ガソリンスタンド、焼肉、喫茶店等 がひしめき合っていました。

これらの商店は、買物を通じて家族構成・家庭内状況まで(今でいう個人情報)、例えば我が家は薬局、販売は対面販売・相談販売が基本ですから、近隣の事が手に取るようにわかりますし、配達もするから家族の誰がどこの部屋で寝ているかまでもおよそ把握できていました。

ですから震災後の食べるものもインフラもない極限状態でも、近隣トラブルはありませんでした。

「お互いさま・向こう三軒両隣」。この深い絆があったからこそ、震災直後の救出活動は地元住民で行いました。

その結果、家族と近隣で被災住民を救出したのは、実に77%に当たる27,000人に上り、公的な救助隊での救出は23%、8,000人でした。

常日頃から培った住民間のぬくもり・やさしさ・あたたかさ・おもいやりが地域の仲間を助けた。このことは海外でも大きく取り上げられ称賛されました。

コミュニティを育んだ商店は震災によって壊され、その後の駅周辺開発で大型店となり地域コミュニティも失われました。

ここで私が一番強調したい事は、防災減災は人の繋がりだということです。

どんなにコンクリートを積んでも、住民間のコミュニケーションに勝るものはない・これが被災者・私の答えです。

あの震災当時のコミュニティを取り戻したい。その思いを実現するために2.5年前に居場所サロンを開設いたしました。

「誰がいつ来ていつ帰っても良い、話したい人は話をする、本を読みたい人は本をよむ」。それぞれが自由の時間を過ごしながら、コミュニティを育んでいく。そんな心の居場所を、毎週火曜日の13時から16時まで、名称は「ぶらり火よう日」……。

私が今、長年思い続けてきた震災当時の地域コミュニティ復活を目指して、夢中になって取り組んでいる事の一つです。

タイトル

震災で失ったもの・得たもの

投稿者

佐藤博史

年齢

80歳

1995年の居住地

神戸市灘区

手記を書いた理由

災害はいつ・どこで・誰に襲い掛かってくるか分からない。
一旦遭遇すると、大きな個人資産を失う事もあるだろう。でも、人として大切なことを学び、人として成長させてくれるのも災害である。常日頃から以下の場所を把握しておくことで(老人ホーム・障害を持つ人の作業所・保育園・高齢家族など)近隣の人と一緒に救助活動をする・安全な避難場所に案内する・落ち着いてからのまちづくり活動を住民として参加することで災害が、人として目に見えないことの大切さ・地域コミュニティの重要性を教えてくれ、地域リーダーとして成長させてくれると考えます。とにかく、前を向いて欲しい。その思いで書きました。