本日3月11日は丁度東日本大震災から13年目に当たる日であり、小学校1年生が20歳を迎える年月が経過したことが、NHKの朝の番組でも紹介されました。当時校舎の4階にいたため神戸でも地震による長い横揺れを感じた後、とっさにテレビを点けると津波が民家を襲う生々しい映像が報じられていました。上空からの映像のため住民の表情は分かりませんでしたが、逃げ惑う車の背後から津波が遡上する光景に背中がゾッとしたことを今でも鮮明に覚えています。そう言えば30年前の神戸でも同様な報道があったのでしょう。火災の煙でくすぶった上空には何度もへリコプターの旋回する音だけが聞こえ、長田区周辺の民家が焼き尽くされていく様子が放映されていたと思われます。
私は1995年1月17日の長い一日のことを忘れないためにも、毎月人と防災未来センターで語り部ボランティアをしております。と言っても当センター開館と同時に応募したわけではなく、開始するまでには38歳で被災してから15年を要しました。つらい体験や嫌な思い出は早く消し去りたいという思いからか、正直なところ10年間はなかなか人前で震災のことを話す気になれず、思い出すことさえも嫌でした。実際購入した新築マンションは火災から逃れたとはいえ被害判定は全壊で、大規模修繕に時間も経費も要しました。そして日常生活を取り戻すまでには何年もかかりました。しかし周辺には地震でケガをしたり身内や職場を失ったりした人もいましたが、幸い我々夫婦には当面住む場所も水や灯油を運ぶ体力もあり、教員として仕事も継続できました。むしろ逆にいつまでも被災者面することに世間がどう思うだろうか、私よりもっと苦しんでいる人も多くいるのではないかと自分の体験を話すことに少し躊躇がありました。ところがそういう半信半疑な思いを払拭した事件が、翌年に起こった東日本大震災でした。あの日から来館者の姿勢にも大きな変化が生まれ、「災害は繰り返し起こる、いつか自分たちも襲われるのでは」という危機感が感じられるようになりました。職業柄、修学旅行生の団体を相手に講話する機会が多いのですが、特に関東の中高生にはそれまでとは違う切迫感が感じ取られ、私の講話にも熱が入りました。
現在の私は語り部を継続しながら、防災教育について研究を行っています。教員時代に培った理科教育をベースに人の命や社会の財産を守るためには、何が出来るのかを科学的な見地から探究しています。生きる力や生き残る術についての記述は教科書にはありません。その手段や方法も災害によって様々です。しかしその鍵は被災者から得ることができると思っています。折しも東日本大震災ではユース語り部の活躍が見られます。我々のような高齢な語り部が健在な間に、両者が連携して安全な社会の実現を目指した活動を継続していけたらと願うばかりです。
タイトル
語り部として振り返る阪神・淡路大震災
投稿者
香田達也
年齢
66歳
1995年の居住地
神戸市長田区
手記を書いた理由
阪神・淡路大震災から10年を過ぎた頃から時々「あの地震は何だったのだろうか」と振り返ることがあります。すると時代の移り変わりとともに、自分の気持ちも少しずつ変化していくことに気づきました。この度語り部として今の気持ちを「30年目の手記」に書き留めておくことは、私にとって40年目、50年目……に思い返した時に貴重な記録になると思われます。様々な災害が多発する今日、阪神・淡路大震災の記憶は少しづつ風化しつつありますが、継承された記録は社会の財産になると信じています。この手記が今後多くの方々に届くことを願って書き残したいと思います。