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その朝、いつものように部活の朝練のために5時過ぎに起床。顔を洗い、朝刊に目を通して着替えようとしたその時、地鳴りのような音、直後下から叩かれたような衝撃に続いて大きな横揺れ。マンション14階は怖ろしいほど揺れた。家族は無事だったがいろんなものが壊れた。私にとっての「被害」はその程度のものでしかなかったが「運命」はそこから急展開した。

まるで運命の糸に引かれるようにその2か月半後に長田にある定時制高校への転勤が決まっていたのだ。着任して3日もたたないうちに希望を出したのを後悔した。校内にはまだ多くの避難者。生徒の多くは荒れていた。避難所になっている学校の中で生活している生徒。仕事を失って「ゆすり」「たかり」を続けている生徒。金のために学校では禁止している風俗店に出入りしている女子生徒もいた。倉庫や車上荒らしで警察に逮捕された生徒。親戚に世話になるために一人で九州に旅立った1年生。書き続けたらきりがないほど。多くはこの震災さえなかったらと思えるような境遇であった。そんな生徒に対して学校は、教師は、何よりも自分はいったい何ができたのだろう?

当時の教師はほとんど手放し。毎回の授業は生徒との戦い、仕事というより無法地帯のような場からわが身を守るような日々が続いた。しかし長田での5年間で生徒や地域の人々と向き合って知ったことは今も生きている。失うものがなくなった人間の荒んだ心。立ち上がる気力さえ奪ってしまう深い悲しみ。これまでの「きれいごと」は何一つ通じない。今まで自分が気付かなかったものに嫌というほど打ちのめされた。教育というものがいかに無力なものだったことか。ただ、この経験こそが現在の自分の生き方の基礎になっていることは間違いない。

阪神・淡路大震災から16年後に東日本大震災が起こりその2年後、偶然生徒の地域活動、人権、防災の担当者となり退職までの9年間高校生に大きな災害が発生した時に最も大切なものは「人と人との繋がり」であることを言い続けた。「共助」とは災害発生直後の助け合いだけではなく、地域の復旧・復興に至るまで支え合いながら生きることだと。あの震災では私のかつての同級生も亡くなった。今生きる幸運を得た自分はこの次の大災害に向けて伝えることが責任だと思っている。

タイトル

震災と運命

投稿者

高橋徹

年齢

67歳

1995年の居住地

兵庫県加古川市

手記を書いた理由

2022年3月末に高校教員を退職しましたが、それまでの9年間校務分掌で高校生の地域活動、人権教育、防災の担当として勤務し、退職後から今日まで地域を繋ぐNPO法人代表としてユース世代による地域防災グループTEAM-3A(チーム・トリプルエース)を設立し「地域の防災は人と人との繋がりから」を伝える活動を展開しています。30年近い時間を経て、震災前には自身のままならなくなった運命に翻弄されて漫然と生きていた自分が「なぜ今このようなことに取り組んでいるのか」という問いに自分なりに答えを出すことが震災を伝えることだと考えました。