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1、2……5、6回目の神戸上空。仕事終わりに千歳を発つので神戸の空から見えるのは、海・山・街の夜景だ。「また来たよ」

神戸と札幌を5往復している。神戸で生まれた孫に会う3泊4日。ちっちゃな前歯が見える片言のおしゃべりが聞きたくて、一生懸命のよちよちあんよが見たくて。絶賛人見知り中の孫は、なかなかママから離れてくれないけど、30歳になった息子にも「こんな頃があったのよ」「信じられない」などとお嫁さんと笑い合うそんな時間が嬉しくて、札幌と神戸を往復する。神戸で過ごす時間はすっかり生活の一部で、息子たちと交わす別れのことばは、「また来るよ」だ。

あの日の朝は、私にとっては、いつもと変わらない朝だった。まだ、朝まで通して眠ってはくれない息子が未明にぐずり泣くので、ミルクを飲ませて寝かしつけ、自分も朝寝をしてしまった。(育休も残りわずか……復帰したらこんなにのんびりはしていられないな……)と思いつつ、テレビをつけ目を疑った。高速道路が何百メートルもなぎ倒され、街が燃えている。ヘリコプターからの映像は、現実ではない映画のワンシーンのようで、実際に起きていることとはにわかに信じられない。鼓動がやっと落ち着いて、アナウンサーの音声が耳に届き、神戸で起こった大地震の被害だと理解できた。

息子を抱きながら、(この子のような、赤ちゃんはどうしているのだろう。真冬なのに、寝間着のまま外に飛び出した親子もいるに違いない。お腹がすいても、おむつが濡れてもどうしてもあげられない。こんなことが目の前で起きたら……)想像しただけで涙が溢れる。神戸の被災状況を、テレビの音声は伝え続けている。あの日は、1日報道特番を見続けるしかなかった。

連日被災地の状況を伝えていた報道が、支援物資の募集を呼びかけ始めた。冬生まれの息子が着ていた衣類、粉ミルクの缶、哺乳瓶、紙おむつを段ボールに詰めた。大きく品名を書き、郵便局から発送した。(どうか、小さな赤ちゃんとがんばっているお母さんの手に渡りますように……)ただ、後に支援物資の仕分けと分配が被災地の大きな負担になっていることを知ったので、あの段ボールがご迷惑ではなかったか、ということだけが気になっている。

あの時、0~6か月くらいで使えそうな衣類をすべて送ってしまったので、当時息子が身に着けていた物が、我が家には一切残っていない。初めて履いた靴下の1足、退院した日に着せたロンパースの1着くらい残してもと、思わないでもなかったが、あの時、私ができる精一杯だったから、それでよかった。

息子の年齢は、神戸が復興してきた年月と同じだから忘れない。

「また来たよ! 神戸!」3泊4日は、あっという間だけど、孫と過ごせる神戸には、楽しみしかない。

「ありがとう、神戸!息子の家族をこれからもどうぞよろしく。必ずまた来ます」

タイトル

ありがとう神戸 これからもよろしく

投稿者

細川亜希

年齢

56歳

1995年の居住地

北海道札幌市

手記を書いた理由

学生の頃、神戸は一度訪れてみたい憧れの街で、雑誌やテレビ番組を目にする度「行ってみたい!」の気持ちを膨らませていました。神戸を訪ねることがなかなか実現しないまま、子どもが生まれ忙しい日々の中で、阪神・淡路大震災の報道を見た朝のことは、30年経った今でも鮮明に思い出し、忘れることができません。そして、その時の自分の行動の良し悪しが判断できずにずっと心に残っていました。北海道で出会って、今は神戸に暮らす息子夫婦のおかげで、神戸と素敵なご縁が生まれました。今回、私の心に残っていた思いを、手記にする機会をもらえて「ありがとうございました」という気持ちです。