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1995年1月17日の5時46分ーー阪神・淡路大震災が起きた火曜日の朝、当時大学1年生だった18歳のわたしは目を開けたままベッドに横たわっていた。朝起きるのが苦手なのに、その日に限ってなぜか5時半には目覚めていた。もう少し寝ようと思っても二度寝できなくて妙だと思っていたとき、突然家全体が前後と上下に大きく揺れながら音を立てた。それまで経験してきた地震とは違う揺れ方で、笑いながら机の下に隠れるようなゆとりはまったくなかった。死ぬかもしれない。そう思ったが、覚悟というより、恐怖からの防衛反応だったのかひどく他人事のように感じられたのを覚えている。机に積んでいた教科書や参考書が崩れて床に落ち、なおしばらくしてから揺れが止まった。家族も飼い犬も興奮していた。通学で使っていた山陽電車も阪急電車も止まり、大学に電話をかけてもつながらなかった。

数日後、父に明石まで車で送ってもらい、フェリーや高速艇を乗り継いで大阪の大学に行って事情を説明した。結局、再試験を受けることができ、留年しなくて済んだ。

後期の試験のとき、震災ボランティアに行く学生さんがいたら名乗り出てください、単位をあげますからという授業がいくつかあった。わたしは名乗り出なかった。今から思うと自らの狭量に呆れるが、学生は勉強するのが本分であって、まして試験やレポートを免除してもらってボランティアに行くなど言語道断だと思っていたのだった。

後年、鍼灸師になろうと専門学校に入ったわたしは、恩師となる鍼灸師の先生から「自分のことしか考えない人間には絶対になるな」と言われたとき、ひどく恥ずかしかった。彼もまた西宮市の自宅で被災し、ボランティアで無料鍼灸施術をしていたのだった。

今わたしは、月一回(毎月最終日曜日)、ホームレスのひとたちに無料鍼灸施術のボランティアをしている。6年くらい続いているのは、ホームレスの方に喜ばれてやりがいを感じているからだが、18歳のときに社会に何もしなかったことへの罪ほろぼしの要素もないではない。

タイトル

死とボランティアを意識した震災

投稿者

本木晋平

年齢

48歳

1995年の居住地

兵庫県加古川市

手記を書いた理由

阪神・淡路大震災から30年目を迎え、当時18歳で被災した身として何を学び、失ったかを振り返りたくなりました。