私は、店舗やウインドーを飾り付けるディスプレイの仕事をしていました。モノを作ったり、飾ったり……大好きな仕事だったし、ずっと続けるんだと思っていました。
神戸市中央区山本通で被災。その日は、1か月後に迫ったバレンタインデーの大阪の百貨店での装飾の設営日で、早朝出発予定だったため、すでに起床し出かける準備の最中に発災。
古いマンションは何とか持ちこたえ、這うように1Fへ降りて、入り口の木に括り付けた自転車は無事、普通だったら自転車で10分程の実家に、倒壊したビルに阻まれつつ、30分以上かけて向かいました。
まだ、薄暗い夜明け前の三宮の街は、何がなんだかわからないきっとゴジラが破壊したんじゃないか、としか思えないありさまで「なんなん……なんなん……なんなん……」を叫びながら、少しずつ明けていく街を震えながら走った記憶だけ……「なんなん……なんなん……なんなん……」
実家も隣の家にもたれ掛るように全壊しつつも、両親の無事を確認して、唯一明かりの灯る市役所を横目に会社のある居留地へ向かいました。
会社の入っているビルも無事、ただ中には入れず、市役所に戻ると電話がすでに並んでいて、尼崎に住む社長へ電話すると繋がり、家族やスタッフの安否を確認して、1日に2回は連絡しあうことで終話。
家族や友達の状況を確認しつつ、避難所はいっぱいの為、実家近くの建設会社さんの事務所を提供してもらって、両親はひとまず屋根のある場所に落ち着きました。
2~3日後、大阪の百貨店から再開日決定を受けて、できる範囲でバレンタインの装飾もしたいとの希望があり、神戸に唯一住んでいる私が事務所に出向き、2日後に入室可能の許可をもらい、どうやって装飾の備品を神戸から大阪まで運ぶのか?を考える事になりました。
そんな時、倉庫業の会社に勤務していた父から、タグボート(※)で運ぶか……という一言で、混乱だらけの中、それどころではない父や父の知り合い、私も会社のメンバーも「タグボートで海を渡って運ぶ」ことを目指しました。
居留地の会社から取り出せるだけの備品を引っ張りだし、タグボートに段ボールや木箱を積みあげロープで縛り、寒風吹きすさぶ大阪湾を神戸港から天保山まで、この赤やピンクのハートや造花を届けることだけ考えながら、ニット帽を耳までかぶり、ダウンジャケットのポケットにカイロを入れて、大阪に向かいました。天保山で待ち受けてくれた仲間に備品を預け、「あとは大丈夫、ほんとにありがとう」という仲間の涙声を聴いて、神戸に向けて来た海を戻りました。帰りは赤やピンクのハートは消えて、冷たい風のせいか、この状況の意味が分からないという思いか、神戸がどうなるのか、海の上で、涙が止まらなかったことだけを覚えています。
その3か月、すぐに壊して撤去してしまうディスプレイという仕事がつらくて、私は、大好きだったこの仕事を辞めました。
※編注:タグボートとは、船舶や水上構造物を押したり引いたりするための船。
タイトル
ハートが海を渡る
投稿者
Nak
年齢
63歳
1995年の居住地
神戸市中央区
手記を書いた理由
たくさんの人々がいろいろな想いやしなくてよかった経験を抱えているのだと思います。私一人でも、めちゃくちゃエピソードがあって、どれを書こうって迷うほどです。
私自身、このタグボート事件?以降、ほんとに腑抜けのようになってしまいました。あの震災のえげつなさの最中、赤やピンクのハートを乗せて海を渡るなんて、どんな心境やったんや!って今でもあの時の自分が怖いです。
今となれば、百貨店の皆さんは普通の生活に戻すことに努力されていたのだと思います。
人って凄いです。普通って凄いです。