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1,初動のミス

午前5時46分、自宅マンションで大きな揺れを感じた。今まで経験したことのない激しい揺れと家具などの倒れるすさまじい音に、一瞬もうダメかと思ったときにピタリと揺れは止まり、直後に電気が消えた。手探りで懐中電灯をさがし出し、ようやく部屋中に物が盛大に散らかった様子がわかった。

私はこの時点ですでに初歩的な、しかし重大なミスをおかしていた。
(1)懐中電灯は使用できる状態で常備。
(2)点灯前にガス漏れの安全を確認。
(3)家族を安全な場所へ誘導。
これらを行わなかったことである。

マンションの隣人たちは「無事です」と言われるし、近隣では大きな破壊は見られなかった。停電で情報も入らず、この地で起きている災害にしばらくは気づかなかった。家具を起こし、割れた食器類を処理すると、のんきにも車で出かけようとしたほどであった。

私はまたミスを犯していた。
(4)携帯ラジオを常備しておくべきだった。
(5)カーラジオで情報を早くキャッチすべきだった。
(6)災害時にマイカーの使用はダメ。

 
2,ライフラインが壊滅

カーラジオで入ってくる情報で事態の深刻さを知った。電気、水道、電話、ガス、商店やスーパー、ガソリンスタンドは閉鎖、道路も鉄道も寸断。すべてのライフラインがストップ。どこへ行けば水が得られるのかわからない。偶然、水道管が破裂して勢いよく水が吹き出しているのを見つけ、隣人たちを誘って汲みに行った。翌日から、そこに長蛇の列ができた。4日目にはその水も枯れたが、その頃からようやく給水車が回って来るようになった。

停電には、ローソクと懐中電灯で対処。熱源にはポータブルのガスコンロが活躍。電気は2日目には通じ、心の中まで明るくなった。

断水は約2週間に及んだ。水の確保にはバケツや鍋だけでなく、キャリアバッグやごみ箱にビニール袋をはめたり、衣装ケースをタンクに代用したり、人々は結構おもしろい工夫をこらしていた。渇水期の川床にビニール袋を敷いて水を集める人もいた。

妻は、節水を徹底。食器の表面にラップを敷く。洗面器で手や顔を洗い、その水をバケツに戻す。調理で使った水も屑を漉してトイレに流す。米はとがないで、そのまま炊く。洗濯は着替えの回数を減らす。

ガスの復旧は1ヵ月以上を要した。北区の弟宅でお風呂を借りたり、バスとJRを乗り継いで尼崎まで家族で入浴に行ったりもした。

 
3,備えあれば

横浜のHさんは、二度にわたって緊急物資を送ってくださったが、それらは日頃、役所から常備しておくように指示されているものだという。

Hさんは避難グッズのリストをつけてくださった。
① ポリタンク
② 救急薬品(紳創膏、消毒薬、包帯、下剤、下痢止)
③ ロープまたは折りたたみハシゴ
④ 食糧(水、乾パン、ごはん、缶詰、お菓子など)
⑤ 懐中電灯
⑥ スコップ(小さいもの)
⑦ カセットコンロ
⑧ バケツ(ポリ袋とトイレットペーパーを入れて)
⑨ 着替え
など。

タイトル

30年前のあの時に

投稿者

在辺流人

年齢

81歳

1995年の居住地

神戸市灘区

手記を書いた理由

1995年1月17日は、生涯忘れられない日となりました。ほんの十数秒で6,400以上の人命が失われ、神戸の街が壊滅してしまうとは、誰が予想したでしょうか。
私は家族も住居も無事でしたが、初めて遭遇した震災に判断や対応を間違ったと思うことが余りにも多く、また後日のために、この状況と感じていること等を書き留めておいた当時のメモをもとに、とくに直後の対応や普段からの備えについて、この拙文をしたためてみました。