Loading

横倒しになった阪神高速、そのすぐ北の倒壊率の高かった地域で、結婚したばかりの夫と、夫の祖母が残した木造2階建てに住んでいました。1階が押しつぶされ家は全壊でしたが、2階に寝ていた私達は無事でした。神戸に本社がある夫の会社も大きな被害を受けましたが、家を失った夫に、広島へ、その後千葉に転勤という計らいをしてくれました。

3月中頃、家の解体通知が届き、立ち会いのため芦屋に戻ってきました。公費解体の申し込みをしていましたが、我が家の担当は自衛隊になるということでした。解体当日。「重機が家を壊している作業を見るのは辛いと思います。辛くなったらいつでも声をかけてください。一旦止めます。見覚えがある思い出の品などが目に入ったら出来る限り取り出します。あのあたりにアレがあったなどの情報も遠慮なく教えてください。」指揮をしている隊員の方に言われました。それまでに親戚や友人達の手を借り、ほとんどの荷物は運び出し県外の実家に預けていましたが、その気配りに胸が熱くなりました。その日の感情は今も心の奥深くに残っています。

自衛隊の人と話をするのはその日が初めてでした。震災前には縁がなかった自衛隊でしたが千葉に転勤になったことで一気に身近になりました。千葉県船橋市の船橋駐屯地の近くに住む事になったのです。迷彩色のトラックや戦車を日々見かけるようになり、その度に解体の日のことを思い出しました。2人の子供にも恵まれ、駐屯地で毎年行われるお祭りに家族で遊びに行きました。

ある日のこと。TV画面に海外へ向けて出発する自衛隊の人達が映っていました。自衛隊初めての紛争地への派遣ということでそれまでにも大きなニュースになっていました。その画像が目に飛び込んできた瞬間涙が止まらなくなったのです。彼らの肩(あるいは胸だったかもしれません)には、私の心の奥に残るあの優しい面差しの隊員と同じ部隊の地名が縫い付けられていたからです。駐屯地の芝生のピクニックシートの上でおにぎりを口いっぱいに頬張る娘の姿と、空港で隊員に抱っこされた幼い娘さんの姿が重なりました。1995年の神戸で多くの命を救ってくれた、人々を元気にするために働いてくれた彼らが、もしかしたら誰かに命を奪われたり、傷つけられたりするかもしれない、あるいは誰かの命を奪うかもしれないと瞬時に思ったのです。災害に携わる部隊と、彼らは違うのかもしれません。おそらく違うのでしょう。危険は覚悟で訓練を積んでいるのだからと人は言います。国際情勢を考えたら必要なことだとも。

1995年1月17日は絶望的な1日で、その後の毎日は辛かったり悲しかったりもしたけれど、希望を見つけることのできる出来事もたくさん経験しました。生きていてよかったと心底思ったし、生き続けるために被災者も支援者も必死でした。自宅が解体された3月のあの日から私の震災後は始まったのかもしれません。

タイトル

震災前、震災後、そしてこれから。

投稿者

長谷川貴子

年齢

62歳

1995年の居住地

兵庫県芦屋市

手記を書いた理由

元日に起こった能登半島地震。日々届けられるニュースやSNSの情報に理不尽なことが多すぎ、神戸の、東北の、その後も各地で起こった災害の苦い経験を経て、蓄積されたノウハウがあるのではないのかと、いらだつ気持ちを抱えていました。そんな時、手記の募集を知りました。震災に関して書けるネタはたぶん無数にあると思います。でも一つに絞るとしたら絶対にこれだと思うことを書きました。自衛隊について考えることは、戦争や、憲法9条や、子供たちの未来を考えることに直結し、30年間の私自身を形作る根幹となりました。そして、私も、後世を生きる人達の為にできることを、などと考える年齢になりました。