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下校途中の道沿いに犬を飼っている家があった。柵から顔をのぞかせるので、時々指をなめさせてやったりしていた。地震とともにその犬はいなくなった。再建とともに、再び彼が戻ってきた時、あっと思ったがすぐに気が付いた。以前のような愛想の良さそうな感じはなくなっていた。僕の感情の変化のせいかもしれない。

自宅は被災地から遠く、当事者意識は低かった。学校は私にとって良いとは言い切れない場所だった。神戸にまつわる忌まわしい感覚は、風景に対する無感覚の一因だった。居ながらにしていない自分、という感覚はそれから今日に至るまで、どの災害、戦争に対しても感じることになる。色々ボランティアをしてみた。だけれども、その経験がいつ“役に立つ”のだろうか(そう、良い意味で)。

タイトル

犬のいた家

投稿者

高木マックス

年齢

45歳

1995年の居住地

奈良県生駒郡

手記を書いた理由

遠さと孤独感を込めて書きました。壊れたことによって大切なものが消えることもあり、また、生まれることもある。記憶はその場所に親密な関係を持った人々だけが持つものではない。拒絶的に表層をすべって逃げた人にとっても、実は問題だ、と思う。その出来事だけが問題ではなく、その時に同時に悩んでいた事が今も未解決なら尚更だ。
今も私はこの街に居ながらにして誰とも、何とも、何か有意味な、あの当時から今迄この神戸で重ねてきた記憶を、何か良いものに結実させることはできないでいる。その淋しさを表現しました。