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その時、まだ眠っていた身体が宙に浮き、直後、グラングランと振り回された。

「神戸に地震は無いと言ってたじゃない!!」私は叫んだ。窓を開け、外をうかがうと、赤土色の空気が見えるだけ。茶ダンス、食器棚の開き戸はすべて開いていて、ガラス、瀬戸物がくだけて床に散乱している。夫と私は床に降りない様ソファー、テーブル等家具の上を移動していく。台所のシンクの戸もすべて開いていて、酢、ソース等調味料が割れて床に混じり合った黒い水たまりを作っている。

できるだけ早く暖かい服と登山靴を身につける。お金も(店なので釣り銭用の小銭も)。

1階の裏の調理室では、大きなオーブンが動き、重い吊り棚が落ちていた。あと数分で夫はここで仕事を始めるはずだった。間一髪で夫は助かったのだ、と思うとぞっとした。まだ電話が通じていたので、両方の実家に「(体は)無事」と。店の方を覗くと食器はほぼ全滅。表側の大きな窓ガラスが割れ、シャッターは歪んでいた。裏口を難儀して開けると、頭上に瓦がせり出している。「せーの!」で飛び出す。外には近所の女子大生達が皆ケータイを持っているが、使えない様。そばに電話ボックスがあるが、皆10円玉を持ってなくて、料金箱が壊され、行列していた。駅前のパン屋さんがフツーに営業していたので食パン1本丸ごと買う。あとで避難所のフェンスに繋がれていた食べ物の無い犬達と私達(校庭にテントを張っていたから支給が無かった)とで分け合った。駅構内の自動販売機は無事で、暖かい飲み物を得る。

と、興奮が嘆きと無意識に押し殺した半日であったが……。

昼過ぎたあたり、近所の家の人が「娘がまだ潰れた家の中に居る」と言い出した。その家は完全にペチャンコで、素人が手を出すのはためらう程の惨状で、丁度通りかかった市役所のゼッケンの2人組に、みんなで頼みこんだのですが、「管轄外だから」との、にべもない返答でした。

今となったら、役所の方も消防車の方達も一つ一つ手を止めていたら、本当の惨事、本当の大火事に駆けつける事ができなくて、もっと大惨事に拡がる恐れがあるので、心を鬼にして(心の中で謝りながら)無視されたのかもしれないが、こちらも目の前の事で、みんな怒っちゃって、その怒りのパワーで、俺たちが何とかするしかない!と。

恐る恐る潰れた屋根の上へあがって、てっぺんと両脇に綱をかけて、それから女も混ざってみんなでそろそろと引っ張る。まわりで見ていた人々も声を出さずにこぶしを握ったりして見守っていた。屋根を取り除いて探すと、こたつの足の中に娘さんが、傷一つなく見つかった。この時のみんなの喜び!!

ひどい一日だったが、娘さんが生きていた事が、その時、そこに居合わせた人々みんなの心を、救ってくれたのです。

タイトル

1995年1月17日の報告書

投稿者

ひらがのゆ

年齢

43歳

1995年の居住地

神戸市須磨区

手記を書いた理由

あの震災で、私はひどいPTSDにかかり、ひどい躁うつ病に移行し、当時同人誌に入り、童話を書いていたのですが、大震災の後、ストーリーが丸で出てこなくなり、なお且つ見るのもつらい、となって、30年近くすべての私の作品を封印してきました。
3年前、縁あってジャンルは違っても「書く」善き師に出会って、励まされ、封印を解くことができました。
「30年目の手記」、モーレツに書きたい!