私は、阪神・淡路大震災発生のニュースを東京駅新幹線改札前で知った。
平成7年1月17日(火)は、成人の日の振替休日の翌日で、単身赴任先東京から自社の神戸の工場に出張するため、居住先のJR阿佐ヶ谷駅を5時に出発して、東京発6時台の「のぞみ」乗車に備えていた。ちなみに、実家は神戸市長田区であるが、前日16日(月)は出張準備のため赴任先で休日出勤していた。
5時46分地震発生後、「神戸で震度6の地震が発生したため出発が遅れます」、続いて「数人の死者が発生」のアナウンスがあったが、少し前の北海道や青森県八戸市の震度6程度の地震を思い出し、その程度ならまもなく発車すると思い出発を待った。
しかし、6時台の「のぞみ」は発車中止となり、6時32分発の「こだま」(7時頃発車)が始発となった。とりあえず乗車したが、終点新大阪に行かず名古屋止となった。
車中では、1台しかない「緑電話」の前に常に10人程度の行列が出来た。私も何回も行列に加わり、出張先や実家との通話を試みたが名古屋まで全く繋がらなかった。
名古屋駅ホームのテレビの前は震災後の状況を見る人が群がっていて、山陽電車の線路の南側の火災現場が大写しされていたが、北側にある自宅の情報は得られなかった。
急いで家に帰らなければと思い、14時発難波行近鉄特急の指定席を確保し、出発まで間を情報収集と昼食に充てた。
特急は2時間後定刻に難波に着き、地下鉄御堂筋線経由で16時半頃JR大阪駅に着いた。
そこで、駅構内の警察の交番所に飛び込み、震災の状況や神戸行きの手段を聴いたところ、「神戸へは交通手段がないが自転車屋なら紹介出来る」といって、「サイクルハルマサ」を紹介して頂き、手頃な中古自転車を購入した。
18時頃に自転車屋を出て、国道2号線に入り、梅田新道、桜橋と西へ進み、淀川大橋を渡って兵庫県に入ったが、尼崎市、西宮市と進むにつれ被害状況は次第に激しくなってきた。車道は至る所に亀裂が入り4輪車は進めなくなり、自転車と単車など2輪者の独断場と化した。神戸市に入り、被害はさらにひどくなり、2号線が進めないので他の道路に移動する場合も生じた。この時に見た脚柱が折れて傾いた阪神高速道路の現場は衝撃だった。
三宮からは県道21号線を進んだ。この道路は、JR線に沿って神戸駅近くまで進み、さらに、地下に高速鉄道・山陽電鉄が通る道路へと続いて、高速長田に21時頃着いた。
途中で見た建物全体が崩れかかった新開地の三菱銀行や中間の階が押しつぶされるように崩れた市立西市民病院の姿などは衝撃だった。
高速長田から自宅までの約2km程度は、火災で通行が危険な箇所や、倒壊して通行不能な箇所が多くみられたので、それらを避けながら、22時頃やっと実家にたどり着いた。
家の中は、本棚や食器棚の物が落ちて無造作に片づけてあったが皆無事であった。
タイトル
阪神・淡路大震災発生日の一日
投稿者
きしもとT
年齢
85歳
1995年の居住地
東京都杉並区
手記を書いた理由
私はこの8月に85歳という節目を迎える。来年1月17日が阪神・淡路大震災から30年であることに加えて、来年3月17日は、1995年に母に手を引かれて須磨区の自宅から須磨海浜公園付近へ避難した神戸大空襲の日から丁度80年となる節目の年でもある。
2つの月日は、私が過去に経験し、記憶に残るベスト2と思っているが、これまで記憶を発表して来なかった。85歳という節目の年齢を迎えるにあたり、小さい経験であっても、どこかで発表することに意味があるのではないか。しかも、チャンスは今しかないのではないかと思いに至りました。今回の手記はその最初の一歩という認識です。