多分もう書けない、高森さん(※1)には次に出しますってDMしようという諦めたときの清々しい気持ちで、仕事に勤しんでいたら、「【重要】南海トラフ地震臨時情報に伴う会社方針について」というタイトルのメールが来た。
ついに来た、そう思った。一番に思ったのは大阪にいる実家の母のこと。明日から帰阪する妹を待たずして、明後日から帰阪する父を待たずして、来週から帰阪する私を待たずして、ひとりぼっちで被災してしまったのだと。目が震えて揺れて滑るようにメールを読んだら、南海トラフ地震が起こったわけではなく、エリア内で起こった地震による南海トラフ地震の発生可能性が高まったことへの注意喚起のメールだった。
隣で同僚は上司と電話をしている。もし、本当に地震が起こったら――
こんな気持ちではもう仕事できないね、と同僚とオフィスを出た。
「怖いね、私って大きな地震経験したことないから」
「そうだね、私も。でも、阪神・淡路大震災は?」
「いやあ、でも生まれて半年だから」
「でも、経験したんでしょ」
「まあ、大阪にいたけど……」
阪神・淡路大震災と同い年である。私は今月30歳になる。誕生も発生もたった1日の出来事で文字通りその日を境に何もかもが変わってしまう。なめらかに30歳を迎えるはずだった。だのに、地震に注意せよ、というメールでこんなにも私は死にたくないという気持ちを膨らませてしまった。死ぬのが怖い、早く家に帰りたい、突然死にたくない、今日中に電気代を支払わなきゃ。あ、友達との集まりに結局行けなかった。電車の中でSNSを見る。日向灘で震度6。備蓄せよ。結婚して夫の転勤で宮崎に住んでいる大学時代の友人のSNSを見た。無事だった。よかった。
私は今年で30歳。きっと今後日本のどこで地震が起きても心配すべき人がいるほどに、私の世界は広いものとなった。それは、29年と半年前に母が私に覆い被さって私を守ったあの日からは途方もなく遠い場所へ来てしまったことをとても強く感じさせた。
地震とともに歩んだ、というほど私も、私が育った地域も地震で何もかもが変わったわけではない。こんなところに住みたいと憧れた幼馴染が住んでいる岩屋の復興団地にありそうな「普通の幸せ」から、解体されるさまを毎日駅から見ていたフェスゲ(※2)が巨大なパチンコ屋になって、そこにかつてアートNPOがあったことを知ったのは東京の大学院での授業だったということに感じた具体的な絶望まで確かに私はあの日起こった震災が残したものや興したもののなかで生きてきた。
あの日から30年、ではなく、あの日からこの日までの日数を数えて、点と点を結んでいくだけなのだと思う。歳を重ねるということも、災害のことを思い出していくことも。今日は大きく点を打つべき日で、27日も私が30歳になるから大きな点を打つ日になるだろう。
※編注1:本企画の主催メンバーである高森順子のこと。 ※編注2:大阪市にあった「フェスティバルゲート」のこと。2002年から「新世界アーツバーク事業」として複数のアートNPOの活動拠点として活用された。
タイトル
19940827~20240808
投稿者
檜山真有
年齢
29歳
1995年の居住地
大阪府大阪市
手記を書いた理由
① 高森さんにおすすめされたので
② でも書けずにいたが、南海トラフ注意報が出たので書けました