1995年1月17日、その時私はまだ1歳にも満たなくて、当然ながらニュースは流れたはずだけれど、あまりに幼すぎて当時の記憶がない。正直なところ、どこか遠い街の出来事でしかないと感じてしまっていた。2011年3月11日までは。
2023年1月17日、私は神戸の街にいた。
東日本大震災で被災した私は、その後の人生をどう生きたらいいのか12年経ってもわからずにいて、とにかく苦しかった。津波が到達した跡が建物にそのまま残っている街と、傷ついたままでなかなか癒えない心。否応なしに震災と向き合わなければならない苦しさに耐えられなくて、逃げるように京都の街へ出てきたのが2022年の秋のことだった。
『その街のこども』という映像作品がある。
震災による傷がまだ生々しかった学生時代にこの作品に出会い、救われた。そして、いつか『1.17のつどい』に参加してみたいと思うようになった。東北で被災した身として、神戸の人々がどのような思いであの日からの日々を生きてきたのか、この目で知りたい。しかし、地元の方々からすれば、私は「よそ者」だ。「被災者」と「よそ者」の関係性で起こったあれこれを、特に震災直後に嫌というほど目の当たりにした。直前まで迷った末、門前払いされるのを覚悟の上で神戸へ向かったのだった。
息を切らして辿り着いた夜明け前の東遊園地には、すでに沢山の人が集っていた。
私と同世代の人、親や祖父母世代の人、震災後に生まれたであろう学生服姿の人や小さな子供。そして、集まった人達よりも多い、幾多もの竹灯籠の灯り。到着してすぐに午前5時46分がもうすぐ近づいているというアナウンスが流れて、時報と同時に周りの人達とともに静かに手を合わせた。
黙祷を終えて、ふと隣を見ると灯籠の上に手をかざしている人がいて、私もその人と同じように手をかざしてみた。優しくてやわらかな温かさ。ここに並んだ灯りは、本来なら今も神戸の街で生き続けている人達の命であり、あれからどんなに経っても忘れない、忘れることのできない思いが灯りとなって生き続けている。この場所へ集った人達は皆それらへ手を合わせ、祈りながらあの日から今日までの時間を生きてきた。どう生きればいいのか考えあぐねている私に、この街に生きる人達の姿が、その答えを指し示してくれた。実際に東遊園地に足を運ばなければずっと知らなかっただろう。この灯りの温かさを、いつまでも忘れずにいたいと強く思った。
すっかり空が明るくなった頃、私は京都へ戻る阪急電車に乗り込んだ。
美しい街並みがどんどん遠ざかっていく中、イヤホンからは『しあわせ運べるように』が流れていた。各々がまた各々の場所に戻って紡いでいく、その日常をしっかりと生きていこうと決意を新たにし、この街に住む人達の幸せをささやかながら祈った。
タイトル
光と祈り
投稿者
阿部朋未
年齢
30歳
1995年の居住地
宮城県石巻市
手記を書いた理由
阪神・淡路大震災の時はまだ1歳にも満たない頃で、当時の記憶は全くありません。ですが、2011年に東日本大震災にて被災しました。
神戸と東日本を比べて比較することは、正直ナンセンスだとも思っています。ですが、少なからず通ずる部分や重なる部分がある気もしています。いろんなきっかけが重なり、2023年の『1.17のつどい』に参加させていただき、人生においても大切な時間になったことを今でも覚えています。東日本の震災で被災した人間が神戸の皆さんによって救われたことを書き残したく、この度手記を書きました。