私が生まれる10年前、阪神・淡路大震災が起こった。私の父は大阪府に、母は神戸市垂水区に住んでいた。私が今住んでいる芦屋市でも、大きな被害があった。小さな頃から1月17日は大きな地震があったと認識していた。それはそれは大きい地震だったと、長田区の火事がひどかったと、多くの人々が死んだと。
その日の周辺になると学校から、親や親戚の阪神・淡路大震災の体験談を聞き、プリントにまとめるという宿題が出ていた。当時父は友達や地元のおじさんと共に、朝釣りに行っていたという。幸い、津波はなかった。南海トラフ地震が起こり、津波が来る場合、国の発表では100分程度で津波は到達すると言われている。それがもし阪神・淡路大震災でもおきていたならば、父は生きていただろうか。私は今このように手記を書けているだろうか。当時母は寝ていて、地震が起きた時、家に車が突っ込んできたのかと思ったという。母の母、私の祖母が子供たちの元に駆けつけて、上に覆い被さる。揺れた時間は僅か15秒だったが、5分ぐらいに感じたという。私がプリントの問い通りにインタビューすると、そんな話をしてくれた。でも私はそんな宿題が出されるたび、うんざりしていた。この宿題が出たんだという話を持ちかけるのもどこか億劫だし、いつものんびり過ごしているリビングで、あんなに暗く真剣な話をわざわざ聞きたくなかったからだ。
1月17日の給食は、毎年質素なものだった。芦屋市の給食は豪華でおいしいと有名だったが、その日は牛乳、コッペパンにジャム、小さなチーズ、炊き出しを意識した豚汁といったメニューがお決まりだった。当時は停電していたから、私たちも電気を消して、静かに食べる。今地震が起きたわけでもないのに。体育館に集まって、みんなで黙祷をする。一体何に、誰に対して? 当時の様子がわかるテレビを見る。隣の小学校では生徒や先生が死んだらしい。いつ地震が起きてもいいように、家族と避難場所を決めておこう、防災グッズを買っておこう。
私は大きな地震を経験していない。生まれる前の話を聞いても実感が湧かなかった。もちろん、全部大事だなとは思っていた。でもやっぱり他人事だった。それももう子供の頃の話。今は他人事など言っていられない。明日や今日、いや今この瞬間にも地震が起きる可能性がある。押しつぶされて死ぬかもしれないし、津波に逃げ遅れて死ぬかもしれない。私よりも、家族がもしそうなったらどうだろうか。現実から目を背けずに地震と向き合いたい。震災によって亡くなった人々のために。日本に住んでいる時点で地震からは逃れられない。でも被害を少なくすることはできる。被災した人々が感じた不甲斐なさを、決して無駄にはできない。
タイトル
人の記憶から
投稿者
アネモネ
年齢
18歳
1995年の居住地
生まれていない
手記を書いた理由
「10年目の手記」(※)を読んで、私は大きな地震を経験していないが、地元が甚大な被害に遭っていたり、親が阪神淡路大震災の当事者であることから、そういった私の立場でも手記を書くことができるのではないかと思ったため。
※編注:東日本大震災から「10年目の手記」のこと。
https://asttr.jp/feature/shuki/