私は現在、教師をしています。教師を目指すきっかけとなったのは、震災で同級生のいとことその弟を亡くしたからです。同級生のいとこは幼いころから同じ神戸市の近くに住んでいたこともあり、成績など何かと比べられる存在でした。そして、高校3年生になったとき、私は進学を希望。しかし、彼は諸事情により進学をあきらめ、就職することを聞いていました。その中で震災が起き、私は生き延び、彼らは亡くなりました。その時は「なぜ?」しか考えられませんでした。そうした大変な状況の中、私は何とか現役で苦労し大学に合格。
その後、教師の世界を目指すも、現実は「就職超氷河期」の時代。夢をあきらめていた矢先、震災の日を迎え、いとこのことを考えていました。「彼らは何のために生きていたのか?なぜ、死んでしまったのか?」、「彼らも生きたかったのではないか」と考えるようになりました。そして、私も「彼らの分まで生き抜こう。自分の生きたい道を進もう」、「震災のことを語り続ける教師になろう」と決意し、大阪の会社の内定を蹴って教師の道を進み始めました。しかし、思いのほかに現実は厳しく、なかなか教師にはなれない。フリーターを続けて、やっと教師の話が来ても非常勤や契約社員の話ばかり。ようやく正式に採用されたのは、それから10年以上経ってからでした。
どんどん教育の世界でも「風化」は進んでいます。「辛い経験、体験談はもういいんじゃないか」という声さえ聞こえてきます。また、「避難しましょう。訓練しましょう」と教条的、ただやっておけばいいという本来の目的から離れた行事化された部分もあります。 何とかそれにあらがうカタチで私はできることを精一杯やっていきたいと思います。それが残された者の使命であり、亡くなった方々への供養であると考えています。私が私らしく教師で語っていく限り、いとこ2人が生きた証、意味があるのではないかと思っています。
タイトル
30年目を迎えて
投稿者
たぬき
年齢
48歳
1995年の居住地
神戸市灘区
手記を書いた理由
あれから30年を迎える。私は高校3年生でした。3日目に親戚の住む北区に両親と離れ離れになり、引き取られた。特に大きなエピソードはない。
しかし、あの震災を経験し、現在、生きている、生かされている意味は震災を受け継ぐ、伝える役割だと考えています。しかし、大きなエピソードもなく、現在、「風化」が進んでいる。何かを残すことができればと思い手記を書くに至りました。