「さっき地震あったやろ?」と大震災の前夜、近隣に住む義父から電話があった。その日は神戸市北区に住む友人宅へ新築祝いに行った後の事で、私達家族は揺れを感じなかった。北区からの帰り道は、何か不気味な静けさの中、小雪が散らついていた。当時住んでいた長田区の13階建ての12階部分の公営住宅へ車を走らせた。家に着くといつも通りの生活をして寝床についた。
そして日が変わり17日。真夜中に一度トイレへ行った記憶があるが、その数時間後にあんな事が起こるとは、誰も予想出来なかったはずだ。寝床は和室で、右に私、真ん中に妻、左に長女そして隣の部屋の2段ベッドの上に長男が寝ていた。そして午前5時46分、「ドーン!!」と爆発音のような音と共に、建物が暴れ出した(揺れるという、生ぬるいものではない)。洋服ダンスが妻と私に襲い掛かる。生後4ケ月の長女にも整理ダンス(高さ80㎝、幅150㎝で両脇が観音開き)が、容赦なく襲い掛かる。暗い中ではあるが、その整理ダンスが長女の頭部へ倒れる瞬間をおぼろげに目の当たりにしてしまった。全く身動きが取れない私は、なす術など無く「長女は死んでしまった」と覚悟せざるを得ない感情になってしまった。洋服ダンスの下から脱出し、妻が「娘を助けて!」と言い、死を覚悟した長女の元へ駆け寄ると、とんでもない光景があった、それは何と、整理ダンスの両脇の観音扉が開いて斜めで止まり、まるで長女を守ってくれているかの状態だった。引き出しも当然飛び出してはいたが、それは長女の身体を飛び越えていた。スヤスヤ眠っている長女をすぐさま抱きかかえ、家族4人2段ベッドの下段で余震に耐えていたが突然妻が玄関へ向かう。「出られへんかったら、アカンやん!」と玄関を開けようとするが、歪みで開かない。私が身体ごとぶつかってようやく扉が開いた。毛布を被り、靴を履き、通路へ出た。するとその眼下には火の手がいくつも見えて、強烈なガス臭がしていた。「神戸は終わった」と感じたのは事実だ。ともかく一階に行くため、階段を駆け下りる。極度の緊張で口の中はカラカラだ。まさに「命からがら逃げる」である。
近隣に住んでいた義父の元へ行くと、まるで戦時中かのように多くの建物が倒壊、がれきの中をさまよった。周りの人たちに義父の事を尋ねてもわからず、住んでいた場所さえわからない凄まじい状況だった。そして家族の元へ戻り「おじいちゃん、見つかれへんかった……」と伝えると、妻はとても複雑な表情だったが、その後、義父は我々の元へやってきて、互いの無事を涙で確認しあった。
南海トラフ巨大地震の発生は、明日かも知れないし、30年後かも知れない。「私の家族は、私が必ず守る」と心に決めて30年になる。きっとこの気持ちは、これからも変わる事はないだろう。
タイトル
私の家族は、私が必ず守る
投稿者
石田 浩
年齢
60歳
1995年の居住地
神戸市長田区
手記を書いた理由
私には2人の子供がいる。長男は34才、そして長女は30才だ。「阪神淡路大震災」の記憶は、今でも鮮明に覚えている。震災前夜・震災時、そして震災後の出来事は、きっとこれからも忘れる事はないだろう。とりわけ一番強く記憶に残っている事は、長女の死を覚悟してしまった事だ。
「関西に地震は起こらない」という教育を学校で習ったかは不鮮明だが、やはり多くの関西の人々は当時、地震に対してかなりの無防備だった感は否めない。自然の猛威に人々はなす術もない事を、痛いほどしらされた。これを機会に子供達が語り継いでくれたら、子々孫々もきっと理解してくれる事を期待したいと思う。