あの日まで何の根拠も無いのに関西は地震が無いと思っていた。
そう思っていた人も関西では多いのではなかったかと思う。
1995年1月17日 5時46分、突き上げる様な揺れに飛び起きた。
「何? 爆発?」 地震って思うまで少し間が有った様に思う。
直ぐに電気を付けたが停電、ブラウン管の大きなテレビも近くに転がっていた。
隣で寝ていた母が部屋から飛び出して「地震や!」と叫んで立っていた。
私も母の所迄行こうとしたが揺れが大きくて立てない。
その頃飼っていた犬2匹を連れて外に出なければと思ったが其処迄も食器棚のガラスが飛び散り、テーブルや椅子が転がって辿り着けない。
もうこの瞬間、33歳で私も終わりか……と死を予測した。
本当に怖かった。近所では火事も発生してその煙が不気味だった。
外に出たら前の家の数軒が倒壊していた。まるで地獄図だった。
父が北区から2時間後位に来てくれた。来るまでに崖崩れが有り、迂回しながら来たと。北区では家から外に出て来る人も居なく静かだったと。
しっかりした情報が無くて、京都が震源だとかみんないう事が違っていた。
でも中央区よりは北区の方が被害は少なそうだったので3人と2匹で行った。夕方には北区は電気が点いた。テレビを見て驚いた。神戸の街が大変な事になっているとその場で固まってしまった。この時にやっと大地震なんだと判った。
私のマンションは新しかったので倒壊は免れたが停電・停水はずーっと続き、ガスは5月末まで止まったままだった。テレビではライフラインは全部普及しました~と流れていたのを見て間違った情報だと腹が立った。
食べ物は近くの小学校で並んでお弁当を頂いた。
のちには炊き出しもして下さり、温かいものが体に沁みわたった。
有難い事だった、人を助けてくれるのはやっぱり人だったんだと痛感した。
お風呂も自衛隊のゴム製の大きなお風呂、寒い中1時間くらい並んでやっと入れた、制限時間は10分だったがどれだけ嬉しかったか。
高級天然温泉の数万倍イイお湯で嬉しくて久々にサッパリした。
その後も運動場で岩手や宮城の方がはるばる神戸まで来てくれて手製のお風呂を提供してくれた。本当に涙が出る程嬉しかった。
東北弁が判らなくて色々教えて貰ったのも楽しかった。
少し落ち着いてきたころ母はお弁当やお茶やお菓子を配ったり、 元気に活動していたのを思い出す。
父も避難所のボランティア活動をしていた。
私も仕事が休みの土曜・日曜には支援物資の整理や配布を手伝わせて貰った。少しでも誰かの役に立ちたいと思いながら。
そんな両親も来年の30年を迎えることなく今年旅立ってしまった。
30年、早かった? 長かった?
私のこの30年は長かったと思う。
時代も変わり、震災経験者の人もどんどん減っている。
体験した人がこれからも起こりうる災害に向けてメッセージを残さなければいけないと思う。
失ったものは大きい、でも人と人との繋がり、感謝の気持ち、一生忘れられない有難うという気持ちを沢山体験出来た。
阪神・淡路大震災以後もあちこちで地震が起きている。
被災者の方の気持ちを思うといたたまれない。
人間の力でもAIでもどうする事も出来ない自然災害、 どう対応していくかが課題である。
タイトル
あの日の事は絶対に忘れない
投稿者
チワコ
年齢
62歳
1995年の居住地
神戸市中央区
手記を書いた理由
日本に住むという事は地震を常に頭に入れて生活していかないといけない。
阪神・淡路大震災を激震地区で体験したのに30年という歳月が流れて忘れかけている。
いざという時の為に準備は必須であることを自身に言い聞かせるために。