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1995年、あの阪神・淡路大震災が起こった。当時、私は高校1年生だった。私たち一家は宝塚市内のマンションの6階に住んでいたのだが、ブラウン管テレビは数メートル吹っ飛び、立っている家具はすべてひっくり返り、食器のほとんどは割れ、幸いなことに命は助かったものの、私も母も家具の下敷きになり、その破壊力は圧倒的だった。震災が起きた当日の朝のことで、一つ、はっきりと覚えていることがある。運よく(悪く?)傷ひとつ負っていなかった父が意気揚々として、「おい、隣のマンション見てみろよ」と私に話しかけてきたのである。なんだろうと怪訝に思い、父について隣のマンションに行ってみると、その荘厳な10階建ての建物には見事に亀裂が入っていた。父は人目をはばかることもなく、そのマンションに入った亀裂を満足気に見上げ、「すげえなあ……」とつぶやいた。そういう父親だったのである。

「それと、コミットメント(関わり)ということについて最近よく考えるんです。たとえば、小説を書くときでも、コミットメントということがぼくにとってはものすごく大事になってきた。以前はデタッチメント(関わりのなさ)というのがぼくにとっては大事なことだったんですが。」村上春樹・河合隼雄著『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫、p18より

あの大震災は、圧倒的な自然災害であるとともに、村上が言うところの「コミットメント」の問題でもあったのだと、今から振り返ると思う。震災直後から近隣の住民たちは、水くみ、食料の確保など、皆何か出来ることはないかと、率先して動いていた。子どもと遊ぶボランティアをしていた人もいた。何か、皆の気持ちが集団的に高揚していたところがあった。戦後にもあのような力が働いたのではないかと想像するのだが、どうだろうか。

一方、当時の私は、みじめなほど無気力だった。水汲みにも買い出しにも行かず、炬燵でぬくぬくと暖をとりながら、スーパーファミコンの『ドンキーコング』に耽った。今からあの頃の心的状況を振り返るのは難しいのだが、進学した裕福な家庭の子息が集まる私立高校に、私はまるで馴染めずにいた。あの頃私は、世間とは裏腹に、「デタッチメント」という泥沼の中にいた。

30歳を過ぎた頃だろうか。私の人生は、徐々に「コミットメント」に転じ始めた。私は反原発のデモに出たり、読書会に参加したりするようになった。震災直後に『ドンキーコング』に耽っていた無気力な青年が、なぜコミットメントに転じるようになったのか。それは、一つの人生の流れとしか言いようがない。ただ人生においては、一方的にコミットメントが続くわけではない。コミットしたり、デタッチしたりの繰り返しである。だが個人的には、残された人生においてコミットメントが意味を持つことは確かだし、皆が苦しんでいるときに『ドンキーコング』に興じる人生には戻りたくないなと思う。

タイトル

阪神・淡路大震災とデタッチメント、コミットメント

投稿者

深井悠

年齢

46歳

1995年の居住地

兵庫県宝塚市

手記を書いた理由

芦屋の風文庫さんのSNSを見たことが一因です。