地震発生の1月17日から学校が再開する2月6日までを記す。何の前触れもなく、強烈な出来事がやってきた。当時は8歳、小学3年生。長田北部にて一家で被災(父母私弟弟)。
5時46分、寝ている時に天井が、家が揺れた。「逃げよう!」と父が言う。ドアがなかなか開かない。着の身着のまま、近所の大丸山公園に向けて飛び出す。一家5人が佇む高台のここは、長田のまちが一望できる場所だ。まちが煙で覆われている姿を一家で見守る。「ハルベとハンメは無事かな、ハッキョは大丈夫かな、トンムらは元気かな……」。両親が言う、「戦争の、空襲の跡みたいやな……」。上空にはヘリコプターが飛んでいる。「まちが死んでいる」と内心思う。
外が明るくなって、長田神社の近くに住む祖父母宅へ。道路が1mほど割れ、隆起している。祖父母宅に到着する。塀が倒れているが、二人は無事だ。水道とガスは止まっている。まちの様子を見に、新長田方面まで歩く。道を遮るほどに大量のピーナツが散乱している(吉田ピーナツ食品(株)前)。大きい麻袋に覆われた、大きい何かの膨らみを見る。真っ暗なローソンに人が入っていく。窓ガラスが割れている。店内はぐちゃぐちゃで、レジには誰もいない。棚にものがほとんど残っていない。
祖父母宅に近い池田小学校の体育館が避難所として開放されていた。限りはあるが水があり、身体を拭ける。用を足すことができ、同じ境遇の人がたくさんいる。区内に給水車が来ると聞き、父と車で向かう。車を停車させた父は携帯で母と話している。給水場所の再確認なのか、早口でテンパっている。気持ちはわかる、必死に動いている。給水所に着き、ポリタンクに水を汲む。列の順番を巡って、父が女性と言い争う。みんなテンパっている。気持ちはわかる、生きなければ。
汲んだ水とガスコンロを使って母がトックを作る。外は寒いが身体が温まる。夜、トイレに行く。一際明るい、階段の踊り場の大きい窓を見る。東の空(鷹取方面)が燃えている。消える気配がない「真っ赤な夜空」に見入ってしまう。「色がきれい」と思う。そう思ってはいけないと心の中で思う。
学校再開の報を聞き、一旦長田の自宅に戻る。薄暗い。猫の尿のにおいがする。家全体が傾いている。ものが散乱している。2階も手付かずのままだ。飼っていた鳥やメダカが死んでいる。ネズミも出るだろうから、もうここには住めない(住家被害は「半壊」認定)。ストレスで自分の髪の毛を抜く。
2月6日、久しぶりの登校日。みんなに会える。避難先からの登校。母が黒マジックで抜毛跡を隠してくれる。父の車でハッキョへ向かう。クラスの活動で絵を描く時間。テーマは「休校中に見たこと、感じたこと」。僕は『나가타의 아침』(長田の朝)の絵を描く。あの日、家族で見た大丸山公園からの長田の朝を。
【ことば】 ハルベ(祖父)、ハンメ(祖母)、ハッキョ(学校)、トンム(ともだち)、トック(朝鮮風雑煮)
タイトル
一枚の絵からあの日を描く (1995年) -『나가타의 아침』(長田の朝)-
投稿者
ソン・ジュンナン
年齢
38歳
1995年の居住地
神戸市長田区
手記を書いた理由
大学時代からの友人・古川友紀さんの長田リサーチ(KIITOリサーチプロジェクト「災間スタディーズ」のワークショップ、「おもいしワークショップ 湊川編」)に同行した際、KIITOの大泉さんと出会いました。彼女とのメールの中で「震災30年の手記募集)の情報を見つけました。その後、テレビを見ていたら「阪神大震災を記録しつづける会」の方が「震災30年の手記募集)と言っていました。被災してから30年目、当時のことを書いてみようと思いました。