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阪神・淡路大震災が起こった時、私は大学を出て、地元の生活協同組合に入所して1年目だった。初めて実家を出て宝塚の小林にある女の子のための独身寮に入っていた。

当時、協同購入センターという職場に配属され、火曜日から土曜日の午前中まで、割りあてられた担当区域に食料品や日用品、生活雑貨等を配達していた。1週間で一通りのルートを巡るよう区域が設定されていて、女の子には、道が広く比較的廻りやすい区域があてがわれていた。

30年近くも前のことで、強烈な経験であったにもかかわらず、断片的にしか思い出せない。今は仕事を辞め、阪神地区には住んでいない。しかし、毎年、1月17日の報道を目にすると心が痛む。

地震が起きたのが、まさに配達が始まる火曜日の早朝だった。入荷していた商品は配達したものの、それ以降は商品が入荷しなくなり、通常の配達はなくなった。配達時に使用していたトラックの荷台に水、クラッカー、カップメン、カンパンやカイロを積んで、安否確認をしながら組合員さんのところを廻った。余震もあり、道路はあちこちひび割れ、倒壊した家が道を塞ぎ、通行できない所もあった。

私が担当していた区域は、大手私鉄が山を切り開いてできた新興住宅地で、切土があちらこちらにあった。山から水が湧いている所があり、バケツやポリタンクを持った人が群がっていた。

週休2日で日曜日と月曜日が休みだったが、震災後は週休1日となり、担当区域の配達のない日は、避難所をまわった。

ある時は、宝塚から山を越えて、神戸市北区の有馬の防災拠点まで、トラックで救援物資を取りに行った。有馬までの道は、あちらこちらでひび割れ、陥没し、運転していなくても怖かった。トラックの荷台を救援物資で一杯にして、宝塚に戻って避難所を廻った。

救援物資は、水、パン、カンパンやカップメン等が多かったが、アメリカから、フレッシュなオレンジも届いていた。寒くて手を洗いにくい避難所であった、小・中学校の体育館では、オレンジは喜ばれないと思っていた。しかし、避難している人は、野菜や果物に飢えていて、オレンジは、またたく間に無くなった。「ありがとう、ありがとう」と言って、オレンジを渡した手を、冷えきった手で握ってくる人もいた。

自分自身も被災者で、寮の食事も出なくなり、カップメンやクラッカーを食べる生活が続いた。体重は5キロ以上増えたのに、半年程生理が止まった。心にも体にも強烈なストレスがかかっていたんだろうなと思った。

タイトル

忘れていくもの

投稿者

かぼちゃん

年齢

53歳

1995年の居住地

兵庫県宝塚市

手記を書いた理由

当時は、生きていくことや仕事に必死だった。新人ではあったけれど、上司に言われるがまま、仕事にも懸命に取り組んだ。
今年のお正月、能登半島でまた大きな地震が起き、一月の寒い能登地方の避難所も大きく報道された。阪神・淡路大震災が起こってから、30年もたとうとしているのに、いまだに被災者には、過酷な生活が強いられる。
地震に限らず、風水害等、日本ではさまざまな自然災害が起こっている。被災者となっても、安心して前へ向かって進める体制をなるべく早く整えられる世の中になっていくことを強く望み、当時のことを思い出して書きました。