阪神・淡路大震災から30年が経とうとしている。1995年1月17日のことは、30年経った今でもありありと思い出すことができる。「自分が死ぬかもしれない」と思ったあの日を体験したことで、わたしの生き方が定まったと言ってもいい。
そろそろ起きて会社に行く準備をする時間だった。突然布団の下から突き上げるような揺れが襲い、電灯が右へ左へグラグラ揺れ続ける。「あー、このまま天井が落ちてきたら、わたしは死ぬな」と思った瞬間、相方に布団を上から被せられ、最後の強い揺れと同時に、食器棚の扉が開き、食器たちが床に落ちてガッシャーンとけたたましい音を立てて、なんとか揺れが止まった。携帯電話のない時代、電話をかけるなら公衆電話に行かなくては。西宮・武庫川団地の7階から階段を降り、公衆電話を待つ列に並ぶ。雨も降っていないのに、水溜りが至る所にできている(液状化現象)のに驚くが、もっと驚いたのは少し北の上田地区を見たときだ。土埃に覆われて、今まで建っていた家がない。一夜にして戦時下で家々が崩壊された街のように、何もかもが変わってしまったのだ。
誰かが持っていたラジオから震源地が淡路島であることが流れてきて、実家の加古川は一体どうなってしまったのかと心配でたまらなくなったが、なんとかかけることができた電話で、加古川はそれほど被害がなかったことを知る。だが、7階に戻り、電気は通っていることを確認してテレビを付けた時、飛び込んできたのは阪神高速が横倒しになっている映像だった。いつも買い物に行っていた三ノ宮駅前も崩壊し、今まで当たり前にあったものがペシャンコになってしまった。水とガスが使えないまま、平常運転の大阪へ仕事に通っていると、こんなに近いのにパラレルワールドのようで、被災者である自分のしんどさが身にしみた記憶がある。今から思えば、愛する人を失ったり、住む家を失うなど、もっともっとしんどい思いをされた方がたくさんいたのに。
重たい水を持ち運んだり、風呂に入れる場所を探し回ったり、いつもよりしんどい日々を送っているうちに発覚した妊娠。これもわたしが震災で死なずに生きていた証だ。妊娠初期のデリケートな時期に相当なストレスを抱えていたわたしから、震災の年の10月に生まれた長女はとても元気でタフな子だった。それから2年半後に双子の弟たちを出産し、本当に忙しない日々を過ごしていても、震災のときの大変さや、被災したわたしたちを心配し、駆けつけてくれた友人たちのことを忘れたことはない。2000年代になり東日本大震災、熊本地震、能登半島地震と、地震が発生するたびに、わたしたちが当たり前だと思っている日常は一瞬で奪い去られてしまうことを痛感する。だからこそ、今を、1日1日生きることを大事にしたい。がんばろうKOBEから、支え合おうKOBE、そして共有しようKOBEへ。過去と今を丁寧に記録することで次世代へ震災とそこからの経験を伝えていこう。
タイトル
生かされていることに感謝して
投稿者
江口由美
年齢
56歳
1995年の居住地
兵庫県西宮市
手記を書いた理由
以前から書きたいと思っていましたが、書くチャンスや、ましてや公表するチャンスがありませんでした。今の自分の人生の転換期は間違いなく阪神・淡路大震災です。子育てがひと段落した今、震災を振り返ることは、自分自身の30年を振り返ることでもありました。個人的なことを積み重ねると、普遍的な記録になります。その一端に加えていただけたらと思います。