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阪神・淡路大震災の朝、私は金剛山の国見城址に午前6時前に立って神戸方面の町明かりを見ていました。その時あの地震が起こったのです。死亡者にはお悔やみを、被災者にはお見舞いを申し上げます。その時の様子をすぐにどこかの放送局に話したかったのですが、被災者のことを思うと、とてもその気にはなれませんでした。しかし時も経ち神戸は立派に立ち直りよい街になりました。なので、もう当時見たことを後世に残してもよいだろう、又被災者や世間は許してくれると思いますので一筆したためました。

私は当時金剛山早朝登山を毎日行っていました。朝3時に起き、朝食抜きで金剛山のふもとまで行き頂上の捺印所へ午前6時を目指して登山していました。私たちは我らのことを早朝組と呼び、いつの間にか仲良くなり大体午前6時前より国見城址でラジオ体操をすることにしていました。私は神戸方面を向き、六甲山や町明かりを見ていました。この朝はよく晴れ、雲一つなく、六甲山のシルエットははっきりと見え、また六甲山の裏から太陽が昇るようなそれは美しい空で、ちょうど陽炎を見ているようでした。六甲山は黒く横たわり、手前はなんと美しい百万ドルの夜景でした。

それはおとぎ話の様に暗闇の中に明るく輝くお城のようでした。私は側にいた同僚に思わずその美しさを告げ、しばらくすると西(明石)の方から閃光が流れ星のように東(大阪)の方へ真横に走ったのです。ほんの一瞬のことでした。両端はどのあたりか定かではありませんが、走ったの美しかったこと、この世の光とは思えない、それはそれは美しい光でした。思わず「おい、あれは何や。なんの光や」と大声で叫んでいました。同僚は「電線でも燃えたんとちゃうか」と言っていました。

あの光の美しさは言葉で表すことはできません。光った瞬間、六甲山の裏の太陽が昇るような光はすーと消え、町明かりも消えました。その時、黒い煙が瞬間に四筋位立ち上り「火事や、火事や」と騒いでいると、遠くからゴーという地鳴りがしてきました。「おい、地震や、地震や」と言うと誰かが、「関西空港からジェット機が飛んだ音やろう」と言うが早いか足元にグラグラと地震がきました。ゴーという音は私を過ぎ、東の方へ消えていき、神戸の方を見ると、煙が十数か所から立っていました。

体操を終え下山して家へ電話するも全然通じず、急いで家に帰ってテレビをつけると地震の放送をしており、画面を見ると金剛山から見た景色と同じく火事に、煙は数えきれないほど立ち、山頂で見た光は地震の光と気づきました。

あの美しい光が脳裏から離れません。恐らく一生離れることはないでしょう。その後、親しい人に話すと、新聞などで地震の時、一瞬光ったという記事を見たと言っていました。その光が先述の光だと思います。その美しさ、その光は何ともいえない不思議な光でした。

タイトル

神戸の

投稿者

中川啓一

年齢

77歳

1995年の居住地

大阪府堺市

手記を書いた理由

2015年、元気だった父が、入院後半月で亡くなりました。この手記は2011年に書いたものです。地震当初から、家族友人に話していた内容ですが、本人が書いているとおり、当事者でない者が公に語ることを遠慮していました。20年近く経ち、何かの参考にしてもらえるのではないかと手記をしたため、娘の私に「新聞社にでも送れないか」と相談してきたのですが、内容的にも、すでにどこかで検証されていることのように思われ、取り合ってきませんでした。父の遺品の中に、清書した原稿を見つけ、10年保管してきましたが、今回このような発表の場があることを知って送らせていただきました。やっと父との約束を果たせた気がします。