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1995年1月17日、当時37歳の会社員だった私は西宮のマンションで被災した。早朝のまどろみの中、震度7の直下型地震に激しく揺さぶられ、身体が生と死の境目に押し出されたような恐怖を味わったが、幸い家族は全員無事だった。

寝間着のまま毛布を持って外に出てみると、マンションに隣接する電信柱が地表まで大きく傾いていた。道路には亀裂が走り、海の方角には大火事を示す2本の黒煙が立ちのぼっていた。<なにか途方もないことが起こっている……> 私は初めて事の重大さに気がついた。

この日から4月まで、ガスと上下水道が停止、洗濯機・風呂・トイレが使えなくなり、ご飯も炊けなくなった。しかし、近隣からの井戸水の提供やボランティアの炊き出し、自衛隊の仮設風呂の設置など、様々な形の支援が届けられ、我々はライフラインの復旧までなんとか乗り切ることができた。

春が訪れ、電車も動くようになり、ひとまず生活は落ち着いた。が、それと入れ代わるように、半壊したマンションをどうするのか? という新たな問題が持ち上がった。建替えか、それとも修復か。このマンションは5棟から成っていたが、建築基準法上の制約があり、棟別に建替え・修復を選択することはできなかった。しかし棟によって壊れ方にかなりの差異があり、ここが大きな争点となった。

私自身、その年の10月からマンションの理事会に参加し、10名余の理事とともにこの問題を1年間協議した。しかしこの間、住民は建替え・修復の二派に分かれ、話し合いを重ねてもなかなか議論は収束しなかった。結局答えの出ないまま次の理事会にバトンタッチし、1997年7月にようやく現実味のある修復案に一本化する議案が住民総会に提出された。大勢はこの理事会案に賛成だったが、建替えしか認めない一部の住民が理事会と対立し、賛成票は規定数に届かず、結果、この議案は否決されてしまった。

私はこのときすでに理事会には属していなかったが、入居者のひとりとして、この結論は受け入れがたかった。このままだとこのマンションは廃墟になってしまう。震災以降、中庭は雑草で荒れ放題、エレベーターは停まったまま、4階の渡り廊下は両端が切り離されて地面に落ちたままだった。住民のメンタルは底をついていたと思う。

総会終了後、私は同じ棟に住む弁護士に相談し、再度総会を開くための署名を集める住民運動を起こした。これが功を奏して、9月に再び総会が開かれ、今度は1票差で修復案が可決された。被災から2年8ヶ月に及ぶ長い道のりだった。

翌年の始めから丸1年かけて各棟の修復工事がなされ、住民はようやく日常を取り戻すことができた。すべての工事が完了した時、中庭で完成を祝う祝賀会が開催された。マンションの復興に尽力した歴代の理事や管理会社の方々、そして住民が集まって乾杯し、談笑した。あの明るい春の日差しの下、苦労をともにした皆さんの笑顔を私は忘れない。

タイトル

復興までの長い道のり

投稿者

美間雄二郎

年齢

67歳

1995年の居住地

兵庫県西宮市

手記を書いた理由

被災当時、私は大型マンションに住んでいましたが、マンションが被災すると、自分だけで建替えや補修を決めることはできず、住民全体の合意形成が必要になります。ところが、このマンションはたまたま半壊状態であったため、この合意を得るのが極めて難しく、長期にわたる住民間の葛藤が続きました。そのあたりの実体験を綴っておきたく、筆を執りました。