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30年、この歳月を人はどう捉えるか。30年後、年取ったなあ、一般にはこんな感覚であろう。
だが、震災で亡くなった娘、友子は56歳となり、家庭を持ち、孫もいる年令だと思うと、30年の重さ、喪失が胸に刺さる。
1月17日は誕生日で26歳を迎える筈だった。
2歳上の姉に子が生まれ、16日に退院したので姪っ子の誕生と自分の誕生を姉の家(自宅の近く)で赤飯と好物のトンカツで祝った。
16日夜「また明日あしたね」と友子は2階の自室に入った。
明日は来なかった。
17日早朝、背中に衝撃を受けた。天井が覆い被さった。箪笥が倒れ、僅か30cmの隙間で圧死を免れた。
全く音の無い漆黒の闇の穴の中にいた。
どれほど経ったか覆われていた瓦礫を近所の人が取り除いてくれたので声が聞こえた。
這い出た地上は眩しかった。
友子は自室で布団に入ったまま眠っているようだった。
西宮中央病院の安置所はまだ数人だった。
たちまち足の踏み場もない程遺体が並んだ。
若者だろう、布団から足が突き出ていた。小学生の女の子は瞳を開いたままだった。
数日後、大阪佃の火葬場にどのように知ったのか、友子の友人達が駆けつけてくれた。その後もへしゃげた屋根の上に女の子らがいたよと聞いたり、崩れた家に花が手向けられたりしていたことがあった。
自宅とやはり全壊した娘一家は、生後13日3kgの新生児と2歳の幼児をかかえ、被災者で溢れる避難所に場所もなく、仮設住宅も2度の抽選にも外れ、娘の母乳も出なくなり、皴々になっていく乳児に命の危険を感じ、大阪大正区のアパートに移り、毎日変わり果てた家に通った。
しかし何事もなかったかのような大阪の街を、友子が勤務していた阪急百貨店を見るのが辛く、自宅の側に借りたハイツを1か月余りで出て、水も出ない崩壊した地にあえて戻った。
当時、避難所にも仮設住宅にもいない我々には情報も何の支援物資も届かなかった。助けてくれたのは親戚、友人、知人だった。
布団、赤ちゃん用肌着、その他、種々持って来て下さった。
その方達に力を頂き、耐えられた。人の情けに心が潤った。
幼児らをかかえた2家族に一刻も早く住まいが必要だった。その年にまず娘の家を跡地に積水ハウスで建て、皆で6人、生きる礎が出来た。
友子が力を授けてくれた。
友子は好きなブティックの仕事に就き、上司に期待され、友人に恵まれ、華やかな青春を過ごしていた。短い生涯であったが凝縮した25年であったと思うことで心の支えとしてきた。
これからの希望、幸せという花を咲かせないまま、たった25年で人生を閉ざされた友子への愛しさ、憐憫の情を残したいと俳句を始めた。
2006年に『花ありき 友子を想って』のタイトルで主人が表紙に大輪の牡丹の花を描き、25句の俳句を手書きして何度もコンビニにコピーに通い綴じて、支えて下さった人達に送らせて頂いた。沢山の励ましの返事がかえってきた。
2000年に『レクイエム明日へ」を、色褪せることのない心境を34句に託し、再び皆さんに届けさせていただいた。
2006年『千の風になって」。そうだ、友子は千の風となり、光になり、鳥になり、星になって我々をずっと見守ってくれている。
友ちゃん、ありがとう!

タイトル

レクイエム 明日は来なかった

投稿者

川端伸枝

年齢

84歳

1995年の居住地

兵庫県西宮市

手記を書いた理由

30年という歳月は私の中では消え去り、震災の記憶はあくまで鮮明でそのまま蘇ってきます。
大きな災害が相次ぎ、各々が風化していくのはやむを得ないと思いつつ、家族を亡くした私にはやはり心の隅にとどめておいて欲しいと切実に願い手記を書きました。