30年前の震災体験は、どの当事者にとっても過去に閉じたものではなく、必ずその足跡を今の暮らしに残し、未来にも続いてゆくものです。
あの日、六甲山麓の渦森団地から見降ろした、市街地からの黒煙と漆黒の夜は、他人事のようなヘリコプターからの映像とは異なり、一生忘れることはないでしょう。
その後、ひょうご防災リーダーの認証を得て、防災士資格も取得したのは、自身の災害への関わり方が変わったからかもしれません。
傾いて半壊となった我がマンションは、じっくり3年もかけて話し合いを続け、住民合意を得て建替えられました。
弱冠37歳の管理組合理事長だった筆者にとって、その間の苦労は筆舌に尽くしがたいものでした。
より大きな被害を受けた方々に比べれば、皆が住み続けながら生活の修復を検討できるだけましという自覚が、会社勤めとマンション建替えの両立を、何とか支えてくれました。
仮住まいから再び住民を迎えた新築の建物は、それから四半世紀を経て、2回目の大規模修繕も間近となっています。
この建替え事業が成功と言えるならば、それは当時の住民の強い当事者意識と、隣近所の緩やかなつながりだったと、今更ながら思います。
様々な事情で建替えに反対票を投じた人達が、今も同じマンションで共に暮らしていることが、何よりもその証でしょう。
自分達の住まいは自分達で守るという思いが、建替え費用や引越しの煩雑を軽減する訳ではありません。
同じ場所に被災マンションを建替えることなど、並大抵では成し遂げられる事業ではないことは断言できます。
震災後に数多くのマンションが新築され、東灘区民の半数以上がマンション暮らしと言われます。しかし、そこに住む住民間のつながりも生まれているでしょうか?
災害時にも同じコンクリートの屋根の下に住む、運命共同体のご近所と相談しながら被害の修復を考えていけるでしょうか?
隣は何をする人ぞという孤立の風潮は、強まり続けている気がしてなりません。
確かに、世代も入居理由も経済事情も違うマンション住民の合意形成など、余程のことがない限り夢物語なのかもしれません。
それでもまず必要なのは、決してベタベタした昔ながらの付き合いではなく、すれ違いに挨拶ができる程度の、緩やかな住民のつながりだと強く思います。
個人情報保護も大事ですが、隣人の名前や家族構成もわからずに、緊急時の行動など起こせる訳がないのです。
この30年、大地動乱の時代に入った我が国は、政治や行政はもとより住民の意識も高まらないまま、地震以外にも多くの天災に翻弄されています。
2度と繰り返さないとの掛け声はむなしく、何ら学ぶことなく「想定外』を言い訳にして、新たな不幸を生み出しているのが現状です。
「自助・共助・公助』のうち期待の薄い公助以外は、日頃の付き合いが希薄と言われるマンション暮らしの中でも、共に暮らす住民の意識ひとつで育むことができると思うのです。
マンション建替え奮闘記
https://www.iwanami.co.jp/book/b262371.html
都市政策
https://www.city.kobe.lg.jp/documents/7858/139m.pdf
タイトル
今こそマンション住民の緩やかなつながりを
投稿者
村上佳史
年齢
66歳
1995年の居住地
神戸市東灘区
手記を書いた理由
震災後10年を経て、住民中心のこの事業を書き物に残す重要性を痛感し、『マンション建替え奮闘記』を上梓してからはや20年近くが経ちます。
上滑りなマンションコミュニティではなく、コンクリート長屋の住民が主体的に緩やかで強固な関係を構築することの重要性と困難は、『都市政策 139号』にまとめました。
何ら過去に学ぶことなく、自然現象の地震が人の手で震災になる現状を歯がゆく思い、迫りくる南海トラフ地震=西日本大震災に向けて、小さな紙つぶでも必要かと駄文を起こしました。
1,200字では書き尽くせませんが、マンション建替えに対する考え方は、30年間いささかも変わることはありません。
機会があれば発信し続けたいと思います。