私は当時、西武百貨店ハーバーランド店に勤務する姉の社宅に、居候の身だった。居所は、兵庫県宝塚市鹿塩2丁目。阪急電鉄今津線仁川駅のすぐ近くである。
この時の職業は、西宮市内の脳外科病院での清掃アルバイト。午前7時始業のため、通常午前5時には朝食を摂り、6時15分頃の阪急電車に乗る。だが、なぜかこの頃は、二度寝する癖がついていた。寝室を出た次の部屋で寝ることが多かったのだが、この日は寝室に戻って布団の中で寝ていた。
午前5時46分。後年5時46分が有名となるが、仁川の地では1分遅れた47分だった。最初に異変に気づいたのは、同じ部屋で寝ていた姉だった。その声で目を覚ますと、床が揺れ始めた。すぐに襖がガタガタと音を立てた。これはただの地震ではないと思ったその瞬間だった。畳がめくれ上がるような強い揺れが襲った。私がいつも二度寝している所に、洋服ダンスが投げ出されるように倒れるのが、はっきり見えた。他の家具も次々と部屋の真ん中あたりに崩れ落ちた。
強い揺れは、まだ続いている。「電気消えへんか」と姉が言った直後、停電した。揺れがおさまったのは、それから少し後だった。
姉は「逃げよう」と叫んで、ひどく動揺していた。私は、「ダイジョーブ、ダイジョーブ」と、落ち着いたものだった。それくらい心のゆとりがあった。とにかく部屋の中は真っ暗である。こんな時下手に動いたらむしろ危険なことは、十分わかっていた。
建物が大丈夫だったのだから、もう安心していいと、私は姉を落ち着かせた。そして夜明けを待つことにした。東の空がやや白む中で、炎のオレンジ色の光にだけは、窓を通して気を配った。火災が怖いからである。
寒くて暗い中で、姉と三言四言言葉を交わしながら、ひたすら夜明けを待つ。布団にくるまって腕枕をしながら考えた。一体どこのプレートが動いたのだろう。あるとすれば南海トラフだ。しかしあの辺の震源で、この仁川の土地がこんなにも揺れるものか。この頃の私に、プレート境界地震の知識はあった。だが活断層地震の知識は、まだなかった。
いつも二度寝をしている所には、洋服ダンスが崩れ落ちている。いつものようにあそこで寝ていたら、私は無傷では済まなかっただろうと、その時それは考えなかった。なぜか気持ちが、ものすごく前向きなのである。
尿意をもよおしたので、トイレに行くことにした。崩れおちた家具を跨ぎ跨ぎ、トイレで用を足す。1回分の水は流れたが、貯水タンクに水は入ってこない。断水している。ガスコンロも確かめた。ガスも来ていない。電話ももちろん、発信は途絶えていた。
再び布団に入る。10年ほど続いた暖冬から一転、この平成7年は寒い冬だった。そんなふうにしてまた、夜明けをひたすら待った。
外が白みはじめると、子供のはしゃぎ声が聞こえてきた。こんな時に子供を遊ばせるなと、そんないら立ちを少し感じた。
完全に夜が明けて窓を開けると、近所のご主人たちが二人、パジャマ姿のままで辺りを見回しながら、
「エラい地震やったなぁ」
「あの辺も浮いとるわ」
などと会話していた。後日の情報として、私の住む鹿塩地区では、二十一歳の男子大学生がひとり亡くなっていた。
部屋の中もようやく明るくなったので、姉と二人で後片付けである。寝室の中はまるで問題がなかった。次の部屋の洋服ダンスは、姉と力を合わせて元に戻した。台所も食器棚などが倒れて、食器もガラスも割れて散乱していた。先ほどトイレに行った時、私は割れたガラスの上を歩いたのであった。よく足を切らなかったものだと、肝を冷やした。
私はテレビを元に戻しただけだった。あとはすべて姉が片づけた。さすがは片づけ上手の女性だと思った。
片付けが終わってしばらくして、室内灯がついた。テレビもついた。さらにしばらくして、ガスも水も出るようになった。姉はここでちゃっかりシャワーを浴びて、汚れた体を清めていた。ガスと水はこの後再び止まった。
電車は間違いなく止まっているだろうから、今日のアルバイト勤務はまず無理である。ならばこの日は家のために走り回ろう。
両親と妹はこの時、群馬県前橋市に住んでいた。電話は使えないから、公衆電話を探さねばならない。調理も出来ないのだから、買い出しに走らねばならない。そしてまた、注意すべきは近隣火災である。
姉は怖くて外に出られないと言っていた。玄関のドアは普通に開いた。マンション自体に大きな損傷はないようだ。できるだけくわしい情報を集めよう。未曾有の大災害に、立ち向かわなければならないのであった。
タイトル
1・17その日①
投稿者
中西徹郎
年齢
65歳
1995年の居住地
兵庫県宝塚市
手記を書いた理由
NHKのローカル番組「リブラブひょうご」を見ました。阪神大震災を記録しつづける会の高森順子様には、是非読んでいただきたいと思い、ペンを執りました。手記というよりは、8篇の随想文です(※)。30年を思って、今回の放送以前に私の記憶の通りに書きためたものです。
高森様も番組で言っておられました。私の本文中にも書いてございますが、当時の被災者の心中には、最初の巨大な揺れに一瞬覚悟した死から生還した、底抜けな明るさがあったのですね。
復興の主人公は、被災者である。日本政府の助成も大切です。ボランティアの援助も有難いですが、あくまで復興の主役は自分たち被災者だ。微力といえども出来ることに全力を尽くそうという気概がありました。ここらあたり、マスコミ報道の難しさでしょうか。
住む家や肉親を失うことは、それは悲愴です。しかし当事者は、いつまでもクヨクヨしていない。ここにもマスコミ報道の難しさがあるようですね。
会の皆様の、今後の研究材料となれば、幸いと存じます。
※編注:ほかの7篇の手記も、本サイトにて公開しています。