Loading

自分の住むマンションが、ほぼ無傷だったのは幸いだった。未曾有の大震災を、私はどのように目の当たりにするのだろうか。

外は晴れていた。雪も雨も降っていないのが、本当に有難かった。マンションの周囲に人通りはほとんどなかった。近くに文化住宅があるが、かなり傾いていた。中にはおばさんがひとり、片付けをしていた。

「エラいことでしたなあ」と声をかけると、「ハァー、もう住まれへんよ」
と、意外に明るい声で返事をしてくれた。

阪急仁川駅に行く。いつも見かける駅長さんだが、動揺した表情はしていなかった。
「今津線の電車は止まっています。それ以外の情報は、まだ何も入っていません」
と、しっかり答えてくれた。

駅の側を通り抜け、よく通っていたコープデイズ仁川店に続く細い路地を行く。路面のコンクリートが波打っていた。ガスの臭いもした。道行く人がひとりいたので、「ガスの臭いしてますか」と聞いたが、うつむいたままで、答えてはくれなかった。

仁川の河畔へ出る。この河をはさんで、こちら側が宝塚市。向こう側は西宮市だ。朝の太陽が射していた。見える範囲に倒壊家屋はなかった。コープデイズ仁川店も、外見は大丈夫そうだった。後の情報だが、この時店内はほぼ使用不可能だったそうだ。川の上流域には、仁川百合野町がある。ここで大規模な地すべりが発生し、多数の死者が出ていたことなど、この時点で知る由もなかった。

少し戻って、駅前商店街通りを行く。行きつけの理髪店がある。店の中では2人の見習い理髪師が、箒で掃き掃除をしていた。水が出ないので、営業再開はいつになるかわからないと言っていた。

店の外には、店主のオヤジさんがいた。店と家は大丈夫そうだが、隣を指さして、
「このお家ねえ、1階部分がつぶれて、2階が落ちてきとるんですよ。家の人はみな2階で寝てて、ケガ人はなかったそうですよ。2階の窓から避難してはったわ」

やはり行きつけの酒販店にも行ってみた。
「どないでした」と主人に声をかけると、
「どないもこないもあるかいな。見ての通りやがな」
と、お手上げの表情だった。一升瓶はすべて床に落ち、割れて散乱していた。

「けど、店の建物は大丈夫やったから、良かったやないですか」と、私は言うが、
「まあ、そうやねえ」
と、掃除の雑巾を手に、言葉少なだった。

バイパスを横断すると、こちらも行きつけのコンビニがある。いつもの男性店員が、いつもの口調で買い物客の対応をしていた。こちらの方は、せめてもの買い出しをしようと、数人の客がいた。床には散乱した商品に、ミルクやジュースがまみれて悲惨だった。それでも客は買える物は買おうと、キズのない商品をさがして、レジに運んでいた。この様子が痛々しくもあり頼もしくもあった。

ご飯ものはほぼ売り切れていたので、私は菓子パンとジュースとお茶、それにビールも買ったかもしれない。マンションに持って帰って、もう朝食だか昼食だか分からず、とりあえず姉と分けて食した。

残るは家族への連絡である。電話は発信していない。公衆電話をさがさなければならない。確か、駅の裏手にあった。その目星はつけていたので、そこへ走る。すでに行列ができていた。ケイタイ電話など、まだそれほど普及していなかった時代である。

待ち時間は長いと思わなかった。並んでいるみなさん、きっと同じ気持ちであろうから。前方で電話をしている人の手元を、よく見るとおかしい。地震の巨大な揺れで、電話機本体にひずみができて、プッシュボタンが戻らなくなっているようなのだ。

ようやく自分の番が来た。この時両親と妹は、群馬県前橋市に住んでいた。電話がつながると、親父が出た。テレビで何やら騒いでいるが、状況がつかめず、とりあえず心配はしていたと言った。姉と自分と住む家は無事なことだけ告げて、電話を切った。通話料を節約せねばならぬし、まだ大勢が並んでいた。

夕刻になり、やはり近隣火災が心配だったので、交番所に行ってみた。
「管内および隣接管内、火災の連絡は入っておりません」
と、警官がしっかりと答えてくれたのには、力強く感じた。

家に帰って姉と、さて何を思案しただろう。電気は来ている。しかしガスと水は止まったままである。テレビでは夕刻すでに、1,000人を越える死者数を報道していた。大地震というこれまで全く体験したことのない事態を、姉と共に乗り越えて行かねばならない。こうして生涯忘れ得ぬ日は暮れていった。

タイトル

1・17その日②

投稿者

中西徹郎

年齢

65歳

1995年の居住地

兵庫県宝塚市

手記を書いた理由

NHKのローカル番組「リブラブひょうご」を見ました。阪神大震災を記録しつづける会の高森順子様には、是非読んでいただきたいと思い、ペンを執りました。手記というよりは、8篇の随想文です(※)。30年を思って、今回の放送以前に私の記憶の通りに書きためたものです。 
高森様も番組で言っておられました。私の本文中にも書いてございますが、当時の被災者の心中には、最初の巨大な揺れに一瞬覚悟した死から生還した、底抜けな明るさがあったのですね。
復興の主人公は、被災者である。日本政府の助成も大切です。ボランティアの援助も有難いですが、あくまで復興の主役は自分たち被災者だ。微力といえども出来ることに全力を尽くそうという気概がありました。ここらあたり、マスコミ報道の難しさでしょうか。
住む家や肉親を失うことは、それは悲愴です。しかし当事者は、いつまでもクヨクヨしていない。ここにもマスコミ報道の難しさがあるようですね。
会の皆様の、今後の研究材料となれば、幸いと存じます。

※編注:ほかの7篇の手記も、本サイトにて公開しています。