兵庫県南部地震発生から3日目の1月19日、不通になっていた阪急神戸線のうち、梅田―西宮北口間が、運転を再開した。もうそこまで復旧したのか。電気は17日その日に復旧している。未曾有の大震災を乗り越える身として、社会の力強さを感じたものだ。
震災3日目、どうにか同居の姉と共に、なんとか生活はできている。しかし何をかせねばならなかった。水道がまだ出ていない。ならば水を確保しよう。アテはあった。この時、私は35歳だったが、大阪市福島区の「大阪老人介護福祉学院」に通う、学生であった。震災以降連絡ができていなかったので、生存報告もかねて、水をもらいに行くことにした。財布にしっかりと金を確保して、姉にこの旨を告げて、私は大阪に向かった。
阪急今津線の方は不通のままだから、西宮北口駅までは歩かねばならない。仁川駅からお隣の甲東園駅までは、いつも散歩がてらに歩いている道ではあった。
甲東園に着くと、家屋が壊れたというよりは、引き裂かれたようになっていた。私の住む仁川とはかなり違う。仁川は震度6(強弱はこの後に制定)、甲東園は震度7であった。ここまで来れば、北口まで一本道だった。
西宮北口駅で梅田行きの電車を待つ。駅員に、今津線はいつ再開するか聞いてみた。
「そら、いつになるやろねえ。そんなもん、新幹線が落ちてきとんねんやからねえ」
甲東園駅を過ぎた頃、巨大な物が阪急線に覆い被さるようになっていたが、あれが新幹線だったのか。こりゃ大分かかるな。
大阪に着くと、景色は別世界だった。目指す専門学校はJRに乗るのだが、私はいつもJR福島駅まで歩いていた。この日もその道を行く。途中コンビニに入った。棚に商品がほとんどなかった。震災の影響がここにも出ているのかと思った。しかし後に得た情報によると、そうではなかった。これは山口組の救援活動のせいだった。
さて福島に着く。私は手ぶらだった。仁川の家にポリタンクなど置いてなかった。福島の商店街に何かあるだろう。と、ずいぶん雲をつかむような物腰だった。しかし、あるところにはあるものであった。青いポリタンクを沢山仕入れて、仕分けをしている店があった。1つ分けてもらえませんかというと、
「ああ、水がのうて困ってはるやろ。持って行き、持って行き」
と、店主のオジさんは快くゆずってくれた。
何円で買ったか覚えていない。丁寧に礼を言うと、「大変やろうけど、頑張ってやあ」と、オジさんは励ましてくれた。
さて、学院に着く。学院長が1人、講師が2人、事務員が1人、いずれも女性だった。自分と家族は避難所にも行っていないことを説明した。学院の方は、授業再開の目途は立っていないと言った。生徒の安否はほぼ大丈夫だが、講師陣が被災しているという。
水をお願いすると、すぐ台所に案内してくれた。買ったばかりのポリタンク。20リットルはあった。さすれば20キロである。
それを片手に、また梅田まで歩く。大層などと、全く思わなかった。阪急梅田駅で、まだ全便各駅停車の電車を待つ。
電車の中はけっこう混雑していた。水や食料を持った人は、まだほとんどいなかった。とりあえず肉親の安否を確かめに行くひとたちなのだろう。電車が西宮に近づくと、
「うわぁ、スゴいやられてるわ」
と、車窓を見る人からそんな声が上がる。
北口駅から仁川駅まで、再び水タンクを持って歩く。今度は線路を歩いた。ここでは何人かの人が追い越していった。宝塚方面に、安否を確認したい親族がいるのだろう。
17日以降、阪神地方は好天に恵まれた。それがとても幸いだった。十数年続いた暖冬から一転して、寒い冬だった。だが私は寒さをほとんど感じなかった。ようやく家に着いたが、疲れはほとんどなかった。
水道はこの翌日に復旧した。しかしこの水は貴重な水だった。水があるというだけで、一息つけたのである。
また買い出しに行く。目星をつけておいたコンビニは数件あった。今度は別のコンビニに行く。そこでも長い行列が出来ていた。レジに並んでいると、震度3程度の余震が来た。「うわぁ、また来た」と、声が上がる。
17日以後、怖さを訴えていた姉は、ようやく落ち着いたようだ。テレビは震災の惨状を報道している。だが、それ以上に、人々が互いに支え合って震災を克服しようとしていることも伝えていた。NHKのアナウンサーは、避難所に必要な物は、水と乾パンだけではないと訴えていた。それに合わせて、救援物資も届いていたようだった。なんとかこの窮地を乗り越えねば。そんな前向きな気持ちだけが、被災地すべてにあった。
タイトル
せめてもの水の買い出し
投稿者
中西徹郎
年齢
65歳
1995年の居住地
兵庫県宝塚市
手記を書いた理由
NHKのローカル番組「リブラブひょうご」を見ました。阪神大震災を記録しつづける会の高森順子様には、是非読んでいただきたいと思い、ペンを執りました。手記というよりは、8篇の随想文です(※)。30年を思って、今回の放送以前に私の記憶の通りに書きためたものです。
高森様も番組で言っておられました。私の本文中にも書いてございますが、当時の被災者の心中には、最初の巨大な揺れに一瞬覚悟した死から生還した、底抜けな明るさがあったのですね。
復興の主人公は、被災者である。日本政府の助成も大切です。ボランティアの援助も有難いですが、あくまで復興の主役は自分たち被災者だ。微力といえども出来ることに全力を尽くそうという気概がありました。ここらあたり、マスコミ報道の難しさでしょうか。
住む家や肉親を失うことは、それは悲愴です。しかし当事者は、いつまでもクヨクヨしていない。ここにもマスコミ報道の難しさがあるようですね。
会の皆様の、今後の研究材料となれば、幸いと存じます。
※編注:ほかの7篇の手記も、本サイトにて公開しています。