平成7年兵庫県南部大地震も4日目となった1月20日だった。恐怖を訴えていた同居の姉は、ようやく落ち着きを取り戻したようだ。
電気と水は来ていた。ガスがまだだった。食料などの物資もようやく手に入り始めた。建物が大丈夫だったので、私も姉も避難所には行っていなかった。
仕事に行ってくれてもいい。姉がこう言ったのは、この日の午後だった。この時、私は清掃会社で、総合病院の院内清掃のアルバイトをしていた。目指す病院は、西宮協立脳神経外科病院。徒歩で片道5キロあった。阪急神戸線は、梅田―西宮北口間が開通していた。今津線は不通のままだった。しかし四の五の言ってはいられなかった。歩くしかない。
震災の現場をまざまざと見ながらたどり着いた病院は、まず建物は大丈夫だった。職員通用口から、あわただしく人々が出入りしている。私は病院の職員ではなかった。清掃会社からの、出入り業者という立場だった。
中に入ると、早速、職場仲間に出会うことが出来た。佐藤さんという男性は、かなりの歳だが、家が近くであったため、震災初日から勤めていたそうだ。病院の中は大混乱で、ゴミバケツのゴミ取りぐらいしかできないと言っていた。私と彼ともうひとり中島さんというオバさんと、三人で作業をしていた。中島さんは被災して出勤できないので、当面二人で作業を分担しなければならない。
とりあえず院内を見て回った。この病院は1階が外来、2階がICU、3階から5階が一般病棟、6階が厨房と職員食堂という配置であった。2階のICUは当面、医師と看護師以外は立ち入りを禁じていた。
病棟に入ってみると、どこもかしこも泥まみれであった。その上に綿ぼこりがかぶっているような状態である。地震直後から肉親の安否を確かめようと、入院患者の家族が大挙して押しかけたのだ。瓦礫を踏んだその足で、そのまま上がってきたようだ。
掃除用具は無事だった。だが水が来ていないので、拭き掃除ができない。佐藤さんと打ち合わせをした。ワシはゴミ取りと1階の掃除をすると言った。ならば私は3階から6階の掃き掃除である。いつも出会っている入院患者にも会った。掃除をどうしてくれるのかと、やはり聞いてきた。とりあえず掃き掃除から始めていくと説明して、その日は帰った。
さて次の日である。前日段取りはしても、何かに欠けているのだから、途方に暮れるのみである。病院の貯水タンクは地震の影響はなかった。だが断水である。貯水はほぼ1日で使い切ってしまったそうだ。
プロの清掃員は、自在ぼうきという専門の器材を使う。各病室と廊下、綿ぼこりと砂ぼこりと泥の一部は箒で取れた。だが床にこびり付いた泥は、箒ではなかなか取れない。
震災前から常々、真面目な勤務態度と丁寧な仕事ぶりで、多くの患者から私は人気があった。「アンタが来てくれて、やれやれや」と言ってくれた人もいた。しかしどこまで患者を満足させているか、当面の疑問だった。
その日は3階から6階まで、1日かけて掃き掃除を行った。看護師の総師である総婦長さんに会えたのは、それからであった。
「お掃除の方、どのようにして頂けますか」
総婦長さんはそのように聞いてきた。
「水ですねえ。水さえあったら、ほぼ通常に戻せます」
私はそう答えた。さすれば大型総合病院は大したものである。自衛隊に頼んだのである。
翌日、病院敷地内に3立方メートルはあろうかという水槽をしつらえてくれた。中は飲用不可の井戸水である。毎朝、自衛隊員が補給してくれる約束まで取りつけた。
すでに3ヶ月半この病院の掃除に携わっている私にとって、あとは慣れたものだった。佐藤さんとまた相談。自分は1階外来と、10時から3階の掃き拭きで、12時帰りのこれまで通りに戻すと。私はこれまで通りに加えて、中島のオバちゃんの分。午後4時までの勤務だったが、それを越えて午後7時くらいまでやった。午前7時出勤だから、昼食を摂るだけで、ほぼ12時間働きづめだった。
それでも最初の泥掃除を終わらせるのに、3日ぐらいかかっただろうか。中島のオバちゃんは、まだ来られそうにない。その分、私に負担がかかるが、私は大丈夫だった。
入院患者や面会客が、「きれいにするなあ」「わぁ、きれいになってるわ」と喜んでくれるのが嬉しかった。そのうち会社本部からも幹部社員が来てくれるなど、1週間、2週間、次第次第に多くが立ち直っていくのが見えた。
朝5時に家を出ての徒歩通勤。そして時間を越えての労働。また、徒歩で帰宅。この繰り返しに疲れなどなかった。すべてが力強く、明るく、多くのものが復興しようとしている。私も頑張らなければと思うのみだった。
タイトル
震災病院大掃除
投稿者
中西徹郎
年齢
65歳
1995年の居住地
兵庫県宝塚市
手記を書いた理由
NHKのローカル番組「リブラブひょうご」を見ました。阪神大震災を記録しつづける会の高森順子様には、是非読んでいただきたいと思い、ペンを執りました。手記というよりは、8篇の随想文です(※)。30年を思って、今回の放送以前に私の記憶の通りに書きためたものです。
高森様も番組で言っておられました。私の本文中にも書いてございますが、当時の被災者の心中には、最初の巨大な揺れに一瞬覚悟した死から生還した、底抜けな明るさがあったのですね。
復興の主人公は、被災者である。日本政府の助成も大切です。ボランティアの援助も有難いですが、あくまで復興の主役は自分たち被災者だ。微力といえども出来ることに全力を尽くそうという気概がありました。ここらあたり、マスコミ報道の難しさでしょうか。
住む家や肉親を失うことは、それは悲愴です。しかし当事者は、いつまでもクヨクヨしていない。ここにもマスコミ報道の難しさがあるようですね。
会の皆様の、今後の研究材料となれば、幸いと存じます。
※編注:ほかの7篇の手記も、本サイトにて公開しています。