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阪神大震災当時、私は西宮市内の脳神経外科病院に、院内清掃の出入り業者として勤務していた。居住地は宝塚市鹿塩。阪急今津線の仁川駅の近くだった。

病院の入院患者で、地震が原因の死者やケガ人はゼロだった。看護師をはじめとする職員も死者ゼロ。但し家屋の倒壊でしばらく出勤できず、そのまま退職になってしまった人はいたようだ。また近隣の倒壊家屋からケガ人が押し寄せ、こちらの方は計33人の死亡を確認したようだ。

そんな中で私は、震災4日目の1月20日から、何とかこの職場に復帰することができた。阪急神戸線は3日目に梅田―西宮北口間が開通していた。私が利用する今津線は、当分かかるようだった。山陽新幹線の高架が落下して、かなりの復旧作業が必要のようだ。

初日歩いて、大体何時間くらいかかるか、見積もってみた。ちなみに朝の始業は、午前7時だった。

私は歩くのが大好きだった。加えて足腰も丈夫に産んでもらっていた。5キロメートルをノンストップで歩くなど、朝飯前だった。

さて道の方である。電車は走っていないのだから線路を歩いても良かった。しかし、下の道を歩くべきか。その判断が難しかった。道中はさほど障害物もなかった。そんなわけで、午前5時に家を出ることに決めた。

同居の姉は、この時西武百貨店、ハーバーランド店に勤務していた。店の方は震災前に閉店が決まっていた。であるから、ある意味、気楽な身分だったようだ。

午前4時には起きて、私の朝食を用意してくれていた。電気と水道は来ていた。ガスはかなり遅れた。だがそれだけで、ほぼいつも通りの生活ができていた。

午前5時、家を出る。大層だとか、面倒だとか、やってられないとかの感情は一切なかった。みんな復興に頑張っている。だから私も頑張る。その気持ちだけだった。

冬の渇水期とはいえ、震災直後、雨や雪がほとんど降らなかったのは、復興の道を歩む身に幸いだった。平成6年まで十数年続いた暖冬から一転、平成7年は寒い冬だった。しかし歩を進める私に、寒さなど感じなかった。

途中東の空に朝日が赤く染まっていたのを覚えている。ポジティブな感情だけだった。

午前7時にはゆとりをもって到着することができた。早速に清掃の業務にとりかかる。仕事場の相棒、佐藤のオジさんと力を合わせて行った。ここに中島のオバちゃんが来てくれたら、完璧なのに。オバちゃんの方は、もう少し時間がかかるようだった。

病院の職員の方も、着々と業務復興に尽力していた。頼もしさを感じた。

「あら、中西さんも来てくれてはんのやね」と女性看護師が、佐藤さんに言っていた。

「ああ、中西君来てくれたから、大助かりや」と、返してくれたのには、本当に嬉しかった。病院職員であろうと、出入り業者であろうと、互いに助け合い信頼し合いながら真剣に取り組めるのには、美しささえあった。

佐藤さんは昼の12時終業。私は午後4時の終業時間を越えて、5時まで頑張った日も、6時、もっと頑張って7時に終えた日もあった。掃除という仕事は真剣に行えば、当然きれい、美しいという明確な結果が出る。それはこんな震災という事態に、本当に重宝される仕事だった。

さて帰り道もまた、真っ暗な中の徒歩での道中である。何日かして今津線の西宮北口―今津間が開通した。さらに、西宮北口―門戸厄神間も再開した。電車に乗ろうか乗るまいか、そんなことどうでも良かった。

門戸厄神駅を出ると、屋台のオネエちゃんがたこ焼きを焼いていた。もう何日かして、焼きそばの屋台も出た。開通した門戸厄神駅から仁川、宝塚方面へ、かなりの人が歩いているようだった。そんな人らが買って行くので、けっこう繁盛しているのだった。

私はたこ焼きを、自分の分と姉の分とを買った。自分の分は甲東園駅と仁川駅の間で、レールに腰かけて食べた。鉄のレールを冷たいとは思わなかった。たこ焼きの温かいのにホッとさせられた。

甲東園駅手前の山陽新幹線崩落現場では、復旧工事が夜遅くまで行われていた。照明を照らしながらの工事であった。

仁川駅の近くには、江川バレエスクールという有名なバレエ学校がある。玄関には貼り紙がしてあり、メッセージがあった。

「スクールスタッフは、全員無事でした。もう少ししたら、レッスンを再開します」

みんな力強く復興している。阪急今津線が全通したのは、いつのことだったか。むしろそちらの方を覚えていない。こんな世間に後押しされて、微力なことでも何とかやりとげよう。そんな気持ちがあるだけだった。

タイトル

片道5キロの徒歩通勤

投稿者

中西徹郎

年齢

65歳

1995年の居住地

兵庫県宝塚市

手記を書いた理由

NHKのローカル番組「リブラブひょうご」を見ました。阪神大震災を記録しつづける会の高森順子様には、是非読んでいただきたいと思い、ペンを執りました。手記というよりは、8篇の随想文です(※)。30年を思って、今回の放送以前に私の記憶の通りに書きためたものです。 
高森様も番組で言っておられました。私の本文中にも書いてございますが、当時の被災者の心中には、最初の巨大な揺れに一瞬覚悟した死から生還した、底抜けな明るさがあったのですね。
復興の主人公は、被災者である。日本政府の助成も大切です。ボランティアの援助も有難いですが、あくまで復興の主役は自分たち被災者だ。微力といえども出来ることに全力を尽くそうという気概がありました。ここらあたり、マスコミ報道の難しさでしょうか。
住む家や肉親を失うことは、それは悲愴です。しかし当事者は、いつまでもクヨクヨしていない。ここにもマスコミ報道の難しさがあるようですね。
会の皆様の、今後の研究材料となれば、幸いと存じます。

※編注:ほかの7篇の手記も、本サイトにて公開しています。