Loading

阪神大震災では、6,000人を越える死者が出た。肉親を失った人は、それは悲惨であろう、無念であろう。しかしそれらに遠慮してか、後に伝えられなかったものがある。被災者たちには最初の巨大な揺れで一瞬覚悟した「死」から生還した、底抜けな明るさがあったのである。

被災者には、復興という明るくて前向きな決意があった。ラジオで言っていた。

「家かいな?あっちゃ向いてるがな」

これは至言であると。失ったものは失ったものとして、何としても元の人生を取り戻そうとする被災者の決意を感じ取れる。と、ディスクジョッキーは言っていた。

震災時の私の職場は、「西宮協立脳神経外科病院」。ここに病院職員ではなく、他社からの出入り業者として清掃作業に務めていた。

西宮市の水道の復旧は、他の市に比べて時間がかかったようだ。そのため、全国各地から給水車が水の補給に来てくれていた。それでも常時水が使えるとはいかなかったようだ。

清掃用の水は臨時に設置してもらった井戸水でまかなっていた。そのようにして震災直後の泥汚れも一段落した時、私にひとつの役目が任された。依頼したのは、病院の営繕の樋口さんという職員さんだった。

毎年午前の定時に、15分間だけ水が出せるようにする。その時間を見計らって、3階、4階、5階の水洗トイレを流してほしいというのである。時間は日によって違った。毎日出勤すると樋口さんのところへ行く。

「ほな今日も、いつも通り10時な」
「中西君すまんけど、今日は11時になったさかい、その時間段取りしといてな」
と、このような具合である。

そのように、1日1回の作業を段取りして、トイレ掃除をやっていた。しばらくして、入院患者がその情報に気付いたのである。

朝出勤した私に、数人の患者がやってきて、

「今日は、水は何時に出るんや」

何のことかと思っていると、

「真剣に聞いとんじゃ。言わんかい」

つまりはその時間に合わせて、水の確保に乗り出したわけである。

「今日はいつも通り10時です」
「今日は11時になりましたさかい」

入院患者たちが、毎日その時間になると、大勢が洗面台前に集まってくる。

「もうすぐ10時や。まだ出んのかいな」

「10時や」「出たぞ」「それー」

洗面器、ケトル、手鍋などを総動員していた。もちろん自分の分だけではない。寝たきりなど、体を動かせない人の分も汲み出していた。

「オバちゃん、ほなこれ飲み水な。床頭台の上に置いとくで。手洗いの水は洗面器やで。下に置いとくさかいな」

「あんたらいつも、済まんねえ」

片足骨折で松葉杖を突いているオ二イさんも、頑張っていた。

「オッちゃん。ほたら鍋に水やで。ここに置いとくで」

「おう、いつも済まんなあ」

洗面台の前は、芋の子を洗うようである。私は私で、その人らをかいくぐるように、各階各便器の水を流す。どこも尿と便とトイレットペーパーで、詰まる寸前である。

「中西、お前は邪魔じゃ。退け、退け」

こんな冗談を飛ばす、病衣を来たオネエさんもいた。いずれも15分が勝負である。

貴重な物資、貴重な時間をフルに使って、患者さん同士が助け合う姿は心打たれるものがあった。私も限られた資源と限られた時間で、精一杯の清掃美化に励むのみだった。

この間いろんな立場の患者さんに出会った。震災直前に体調不良が再発して、退院が伸びた女性の方がいた。その方の家は全壊した。

「あの時退院していたら、私は死んでました」

か細い言葉でこうおっしゃったが、私はどう言葉を返して良いかわからなかった。

自宅の倒壊で両足を骨折した男性の方は、3月頃になって。ノミ屋に頼んで、大好きな競輪をやっていた。これも私は何と言って良いかわからない。この人の奥さんも。後から入院してきた。

「上の子、亡くなりましたしねえ」

と、あっさりおっしゃるのには驚いた。失ったものは戻らない。残った者がしっかりと立ち直ることこそ、最高の供養なのかもしれない。奥さんの凛とした姿に、そんな気概を感じた。ご主人の競輪も、理解できた。

避難所に行っていた中島のオバちゃんも、戻ってきた。それは2月下旬だったか。清掃スタッフがようやく揃った。片道5キロメートルを歩いて通勤していたが、阪急今津線が全通したのはいつの事だったか。春の芽吹きをこんなに雄々しく感じた年もない。相変わらず賑やかな病院だった。復興の槌音が、そこかしこから聞こえてくる春だった。

タイトル

震災と病院の入院患者たち

投稿者

中西徹郎

年齢

65歳

1995年の居住地

兵庫県宝塚市

手記を書いた理由

NHKのローカル番組「リブラブひょうご」を見ました。阪神大震災を記録しつづける会の高森順子様には、是非読んでいただきたいと思い、ペンを執りました。手記というよりは、8篇の随想文です(※)。30年を思って、今回の放送以前に私の記憶の通りに書きためたものです。 
高森様も番組で言っておられました。私の本文中にも書いてございますが、当時の被災者の心中には、最初の巨大な揺れに一瞬覚悟した死から生還した、底抜けな明るさがあったのですね。
復興の主人公は、被災者である。日本政府の助成も大切です。ボランティアの援助も有難いですが、あくまで復興の主役は自分たち被災者だ。微力といえども出来ることに全力を尽くそうという気概がありました。ここらあたり、マスコミ報道の難しさでしょうか。
住む家や肉親を失うことは、それは悲愴です。しかし当事者は、いつまでもクヨクヨしていない。ここにもマスコミ報道の難しさがあるようですね。
会の皆様の、今後の研究材料となれば、幸いと存じます。

※編注:ほかの7篇の手記も、本サイトにて公開しています。