阪神大震災当時、私は西宮市内の中小の総合ビル管理会社で、病院の院内清掃のアルバイトをしていた。会社上司の正社員たちは地震直後から、東西の受け持ち事業所を走り回ったそうだ。道路が寸断されているので、大変などというものではなかったと言っていた。その点、私はアルバイトの気楽な身分だったので、申し訳ないような気持ちになる。それでも震災4日目から仕事に出て、「頑張ってくれた」と言ってもらえたのは嬉しく思う。
私の持ち場の総合病院の清掃もようやく一段落した頃、今日は別の持ち場へと依頼された。向かったのは、神戸の三宮だった。「三宮中央ビル」と「三宮国際ビル」。私にとってとてつもなく懐かしい場所である。
平成5年秋に親父の会社が全面的に破産。一家は離散となった。仕事もなければ、明日食う金もない。そんな体験をした。そんな中での平成6年4月に、ようやくこの会社にアルバイトとしての就職ができたのである。
配属されたのが、この2つのビルだった。実質働いたのは、4、5、6月の土曜日曜だけだった。7、8月は夙川の市民プール。9月は家の近くのマンション共用部。10月からこの時の総合病院。とても3カ所弱とは思えない。それぐらい働かせてもらえることの尊さを、改めて心に刻めた場所だった。
到着すると、建物自体は大丈夫のようだった。コンクリートの壁はひび割れがひどかった。国際ビルの方が特にそれが深刻だった。ひび割れた部分に樹脂を注入しているのであろう。注射器のようなものが、壁に何本も差し込んである。そんなのがどこもかしこにもあった。私には痛々しい思いであった。
テナントになっている会社内部の床面のタイルに、いつもはワックス掛けの掃除をしていた。今は会社の中には入れない。共用部の掃除を依頼された。廊下は病院ほど汚れていなかった。それでも至るところに泥がこびり付いていた。箒で掃いて、モップで拭いて。そのあとトイレの掃除もあった。こちらの方は、床掃除のあと雑巾でもっての備品掃除。
水がとりあえず来ているので、作業は早くできた。私の住む宝塚市鹿塩では、震災4日目に水道は復旧した。神戸市もわりと早かったようだ。西宮市は水道の復旧が遅いと、市民から文句が出たという。その点で、私の病院では何かにつけて苦労させられた。
2つのビルを終えると、もう日は暮れていた。上司の運転する車で帰る。走っているのは、国道43号線。この上に、阪神高速道路が走っているのである。
東灘区の深江から芦屋市にかけて、震災の象徴にもなった、阪神高速の倒壊現場がある。これには私もショックだった。
「阪神高速で横倒しになったとこねえ。あれ、どこかの下請け会社の手抜き工事やったらしいねえ。セメントの混率がメチャメチャで、買い過ぎたセメント、ここで処分したんと違うかて、そんなやったらしいねえ」
と、私が言うと、
「ああ、そうなの」
と、ひとりの上司。
運転しているもうひとりの上司は、
「摘発しよ思ても、潰れて無かったりして」 と笑い飛ばしていたが、本当は笑い話ではなかったようだ。
社長も含めて正社員たちは、ほとんど毎日阪神高速を通行していたそうだ。毎日走っていたところが、あんな形で倒壊したことは、本当にショックだったそうだ。怖い物見たさで、現場に立ち寄ったりもしたと言っていた。
後年の話になるが、深江から芦屋に他社の清掃アルバイトに来ていたオバさんがいた。 倒壊瞬間の恐怖の話を聞いた。
「そらもう、まだ家が揺れとるうちに、ドーン、ドーン、ドドドドドーン言う音がして、この世が終わったか思たよ」
こんなふうに目を丸くして話してくれた。
そうこうするうちに、現場にさしかかった。
「ここから上、何にもあらへんねん」
なるほど高速道路が途中で切れて、漆黒の夜空が見えた。倒壊部分は撤去されていた。
この上司たちは、病院のワックス清掃にも来てくれた。ある時リハビリスタッフに尋ねられた。リハビリ室は震災当日、死亡者の遺体安置所になった。丁度明日、ワックス清掃に行くと聞いていたので、
「明日です。明日本部から清掃に来ますので」
と伝えた。とにかく至る所、血液がこびり付いていたそうだ。
阪神大震災被災者の復興精神は、自分も携わった一人として見ても、明るく前向きさった。これこそが後世に伝えられるべきものではないか。ボランティアの方々にも、もちろんお世話になった。ボランティア元年とも言われた。だが復興の主人公は、やはり被災者本人であったことを忘れてはならない。
タイトル
震災と清掃会社の上司
投稿者
中西徹郎
年齢
65歳
1995年の居住地
兵庫県宝塚市
手記を書いた理由
NHKのローカル番組「リブラブひょうご」を見ました。阪神大震災を記録しつづける会の高森順子様には、是非読んでいただきたいと思い、ペンを執りました。手記というよりは、8篇の随想文です(※)。30年を思って、今回の放送以前に私の記憶の通りに書きためたものです。
高森様も番組で言っておられました。私の本文中にも書いてございますが、当時の被災者の心中には、最初の巨大な揺れに一瞬覚悟した死から生還した、底抜けな明るさがあったのですね。
復興の主人公は、被災者である。日本政府の助成も大切です。ボランティアの援助も有難いですが、あくまで復興の主役は自分たち被災者だ。微力といえども出来ることに全力を尽くそうという気概がありました。ここらあたり、マスコミ報道の難しさでしょうか。
住む家や肉親を失うことは、それは悲愴です。しかし当事者は、いつまでもクヨクヨしていない。ここにもマスコミ報道の難しさがあるようですね。
会の皆様の、今後の研究材料となれば、幸いと存じます。
※編注:ほかの7篇の手記も、本サイトにて公開しています。