Loading

阪神大震災は、寒い寒い、そして冷たい冬に起こった。しかしその復興は、春の芽吹きと共にあった。

春の朝日が眩しいと感じたのは、もう3月だった。私が清掃作業員として出入りする総合病院は、すっかり元の営みを取り戻していた。スタッフの方々本当に良く働いていた。そんな自他を労うような言葉が交わされていたのも、その頃だったと記憶している。

この病院では、夜間の守衛業務が2名の職員の交代制で行われていた。まさに当日、当番だった守衛さんに話を聞くことができた。

「それはもう6時近くになって、ああ今日の仕事も終わりやなあと、やれやれと思とった頃やったねえ。
ガタガタッと揺れ出して、何事かいな思たら、すぐに戸棚が倒れてきたんよ。こら只事やない思て、すぐに外に飛び出したね。そしたら地面の上は、それほど揺れとるようには感じんかったわ。そしたら隣の工場のブロック塀がドサドサドサッと倒れてきて。これはえらいこっちゃ思たね。
揺れがおさまったんで守衛室戻ったら、棚も何もかもムチャクチャ。こんなもんあったんかい言うもんもみな、崩れ落ちとったね。そこらじゅうのもんかき分けて、ようようのことで机からマスターキー取り出して。
通用口から入って、まず自家発電に切り替えて。電気が灯って、まず外来の夜勤看護婦さんさがして。診察室も戸棚が倒れたりしとったけど、とにかく2階のICUに来てくれ言うて2階行って。ICUもベッドも何もかもごちゃごちゃになっとったけど。とにかくケガした人やら、気分が悪うなった人はおらんか確認して。ICUはベッドの数は知れとるけどねえ。
ほんで1階の看護婦さんはそこにおってもろて、3階、4階、5階、6階へ飛んで行ったね。どの病室もベッドが部屋の真ん中に固まっとるような状態で。夜勤の看護婦さんは各階2人だけや。歩ける患者さんは、ベッドを元に直すのん、手伝うてくれとったね。
4階も5階もそうこうして。6階は厨房やから、火が出てへんか確認せんなんね。とりあえず各階のベッドを直して1階に降りたら、もう外が白んでたわ。
そしたら玄関の方で、何や音が聞こえるんや。行ってみたら近隣から多勢の人が集まって来て、玄関のガラス戸叩いとるんや。マスターキーで開けたら、ケガ人見たってくれ言う人ばっかりや。
とてもやないから各階に内線して、夜勤の看護婦さん皆降りてきてもろて。そこらじゅうの使えるんもん、皆使うて床に敷いて、ケガ人さん寝てもろて。そうこうしとったら、非番の看護婦さんが8人、着の身着のままでかけつけてくれたわ。お医者さんの方は4人、途中の道路で、車を乗り捨てて来てくれたわ。そらどこの道路も、エラい渋滞やったそうで。
そんでケガ人診てもろたんやけど、胸や腹がボコンボコンへっこんだような人ばっかりやからねえ。素人のワシが見ても、もう助からん思うような人ばっかりや。
頭から血を流しとる男の人が来て。この人診んなんのかいな思たら、背中の嫁はん、先っき診たってくれ言うてるし。
死人は検視をせなあかんのやねえ。これは医者にしかでけへんから。そないして、アカン人は、リハビリ室を開けてね、そこへ入ってもろたんや。
そらもう時間が経っても次から次から来るからねえ。最終的には33人、この病院では死人を確認したんやねえ。それでも入院患者の中で、地震が元で亡くなった人がゼロで、ケガ人もおらんかった言うのが、不幸中の幸いやったからねえ。
看護婦さんの中にも、ケガ人が1人もおらん言うのが良かったねえ。まあ、家が潰れて出て来れんようになった人は、事務の人にも何人かおったけどねえ。」

神戸市内の震度7は有名だが、西宮市内でも甲東園、西宮北口、今津の各地区は、震度7だった。この病院も、震度7の中にあった。私の住む宝塚市鹿塩地区は、震度6(強弱が判定されたのは、この阪神・淡路大震災の後であった)だった。

この守衛さんの話を聞いて、私はまだ幸せな方だったのかという思いがした。生き残った以上、他の人の分まで生きるのが責任かもしれない。出来ることは精一杯やりとげた。これが震災後、自分もふくめ、私の出会った人の姿であった。

老人介護の仕事に就くのは、この3年半後の、平成10年6月だった。多くのお年寄りを幸せにできたのは、この震災体験があったからかもしれない。

タイトル

大震災直後、病院守衛さんの話

投稿者

中西徹郎

年齢

65歳

1995年の居住地

兵庫県宝塚市

手記を書いた理由

NHKのローカル番組「リブラブひょうご」を見ました。阪神大震災を記録しつづける会の高森順子様には、是非読んでいただきたいと思い、ペンを執りました。手記というよりは、8篇の随想文です(※)。30年を思って、今回の放送以前に私の記憶の通りに書きためたものです。 
高森様も番組で言っておられました。私の本文中にも書いてございますが、当時の被災者の心中には、最初の巨大な揺れに一瞬覚悟した死から生還した、底抜けな明るさがあったのですね。
復興の主人公は、被災者である。日本政府の助成も大切です。ボランティアの援助も有難いですが、あくまで復興の主役は自分たち被災者だ。微力といえども出来ることに全力を尽くそうという気概がありました。ここらあたり、マスコミ報道の難しさでしょうか。
住む家や肉親を失うことは、それは悲愴です。しかし当事者は、いつまでもクヨクヨしていない。ここにもマスコミ報道の難しさがあるようですね。
会の皆様の、今後の研究材料となれば、幸いと存じます。

※編注:ほかの7篇の手記も、本サイトにて公開しています。