当時居住していた東灘区のマンションの住人はみな冷静で慌てることなく、情報を共有し落ち着いて生活をしていた。そんな震災10日後、1月27日突然Kさん母子3人がやってきた。話によると長女の中学時代の大親友であったとのことで、暫く家に泊めてほしいと。震災後Kさん母子は実家の奈良へ避難していたが、光熱費、食費の出費に実母から、出て行ってほしいと追い出されたというのだ。私の住居から徒歩7、8分のマンションに住んでおられたが、建物の被害が大きく住める状態ではないとのことであった。
当時私の家族は、長男が京都で学生生活、長女は中国へ留学中で、夫は被害の大きい西宮市で教師をしており学校に寝泊りしていた。Kさんの夫は単身赴任で四国にいるとのことだったが、四国には行きたくないと話された。暫くと言うのだから2、3日だろう、こんな非常時の夕方に断るものではないと思った。
そしてKさん母子3名との共同生活が始まった。2人の娘は毎朝厚切りパンに好物のブルーベリージャムをこれでもかと厚塗りして朝食が始まる。数日でなくなる空き瓶を持ち上げて、ジャムがない、買っておいてと言う。夕食後から未明にかけて毎日テレビゲームをする。就寝前には、気持ち悪いからと毎日3人分の布団に乾燥機をかける。また、水道が復旧するや洗濯をさせてと、自宅からカーテン、ベッドスプレッド、衣類、毛布などをカートに積み込み次々に持ち込む。洗濯機は毎日フル回転。そして、週末の土曜日になると、四国から夫が帰るのでと、Kさんだけが自宅へ戻り、日曜日の夕方には我が家で食事をする。3人の誇りはK氏があの東京大卒であること。だがその夫には会ったことはない。
暫くして、中国の娘から友だちでなく、あまりよく知らないと言ってきた。京都の息子も居場所がないからと帰省できずにいた。
そんな3月のある日、電力会社から、すごい電気料金の跳ね上がりに、地震のせいで漏電しているかもと、配線チェックしに来られた。漏電はしていなかった、理由はよく分かっていた。
Kさん母子の態度は堂々として何の悪びれもなく、次々に要求をして来た。美味しい果物が食べたい、和菓子、ケーキが食べたい、こんな料理が食べたいなどなど。またある日、関東に住んでいる友人から義援物資が何箱も届くと、物欲しげに覗き、手に取り、これほしい、と手に握って離さない。
それより彼らのマンションを訪ねたときだ。室内に入って驚いたのは北海道家具に食器類が壊れることなく整然と並んでいたことだった。ちなみに我が家の食器類はプラスチック以外ほぼ全滅であった。さらに彼らのマンションにそのまま居住されている方がかなりいることだった。
自宅へ引き上げてほしいとの話には耳を貸さず、2人の娘どもは、ここが良いんだ、ここが気に入っているんだと泣き叫ぶ。その様子を見て、助けるべき人たちでなかったことを悟った。
堪忍袋の緒が切れて、3月末日、彼らが外出した機に、私は施錠し彼らの荷物をドアの前に置き外泊することにした。その後彼らがどうしたかは知らない。暫くしてKさんから、娘たちがお宅へ行きたがっている、お訪ねしたいと電話が再三あったが丁重に断った。震災当時、美談が多い中、こんな話を誰にも話せなかった。前例の無い大震災の中、命あることに感謝して、助け合うことが大切との想いであった。今震災後30年にして言えるのは、被害は不平等で、災いを食い物にする人もいると言うことだ。忘れたいことである。
タイトル
今だから話せる、嫌な思い出
投稿者
梶原登喜子
年齢
77歳
1995年の居住地
神戸市東灘区
手記を書いた理由
生まれて初めてあんな大きな地震に遭い価値観は一変した。被害の大きい中、神戸の人々は助け合い、思いやり、あたたかい、いいニュースがたくさんあった。そんな折、誰にも言えない、言いたくない私の個人的な出来事を30年経った今聞いてほしくなった。