私は当時、垂水区北舞子厚生年金住宅9号棟4階944号室に住んでいました。震源地は、ベランダから見える明石海峡大橋の淡路側の支柱のふもとでした。地震というより、何か物が落ちたような感じで、下から、突き上げられ、妻と川の字に寝ていたのが、正座になるような突き上げでした。29インチの大きなテレビが5cmずれていました。最初は停電していて、車のラジオを聞きに行き、NHKにしてやっと震源地がわかり、すぐそこだとびっくりしました。
夜が明け、電気がつき、テレビをつけると阪神高速が倒れているのを見てまたびっくり。通路が切れて、バスが宙ぶらりんで、運転手さんが必死に後部座席へはいつくばって死をのがれるのが映っていました。空を飛んでいるのは、報道のヘリ4機だけで、消防や自衛隊のヘリは全々来ませんでした。ポートアイランドの橋も落ち、世界一を誇った中央市民病院は全々役に立たず、救助も診療も何もしていませんでした。後に、上からの命令がなかったので何もしなかったと言う事でした。海からも海上自衛隊も全然来なかったです。
私は済生会兵庫県病院で調理師をしていました。六甲山を越えたら、まったくの別世界で、全々、何ともなく、水道ガス電気いつも通りでした。妻は妊娠8ヵ月で、いつ生まれるか分からないので部署の休憩室で2週間ほどざこ寝をしていました。そして神戸市の保養所、五社療の所長に1万円をつかませて1週間ほど泊めてもらうことにしました。そして、西宮の両親をよび、一夜だけ温泉につけてやりました。妹一家も呼ぼうとしたらだめだと言われ、NTT中国からの救援隊が携帯電話をもち、泊まりに来ていました。
長田地区も最初、火災はなかったのですが、電気を通電させ火災になり、おもいっきりもやして、ややこしいところを、これ幸いに大々的に区画整理を実行しました。国も市も自衛隊もあまり今のように救助隊を派遣せず、住民自力互助で改善していました。
有馬温泉は、閑古鳥がなき、板前さんや従業員がクビになり、病院に雇ってくれと多くの人が来ました。旅館に被災者を受け入れていればつぶれるところもなかったと思います。ボランティアや救助も前例がなかったため全々でした。ポーアイの地下トンネルを掘ったのも橋が落ちたからです。
ニュースでは首都圏は地下鉄サリン事件、上九一色村のサティアン、松本智津夫の捜索にテンヤワンヤで阪神大震災の事なんかニュースにのぼらない日が多くありました。
今は毎日のように東北地震、能登地震が毎日のように報道されています。「いいなあ」と思います。10年ぐらいはあっという間です。20年ぐらいでやっと復興したなと思いました。30年経つともう知らない人ばかりです。
あの時は必死でした。息子も30才です。妻の里、山口県で出産しました。私も70才になりました。当時の本当の事を少しでも知ってもらえるように書きました。神戸も当時と「ガラッと」かわりました。記録に残ることを願っています。
タイトル
そして、神戸
投稿者
妖気妃
年齢
70歳
1995年の居住地
神戸市垂水区
手記を書いた理由
当時の本当の事を知ってもらいたくて