主人と料理の修行に神戸に移り住んでいた22歳の時、阪神・淡路大震災に遭いました。
1月17日早朝、低い地響きと突き上げる激しい揺れで目を覚ましました。「爆弾が落ちたのか!?」と錯覚するような衝撃でしたが揺れが続いて初めて地震だと確信しました。
気がつくと、私は隣で寝ていた主人に馬乗りになり覆いかぶさっていました。幼少期に今は亡き父が小さな地震の際、同じように私を守ってくれた行動を無意識に取っていたのです。主人も私の頭を抱え、揺れが収まるのを待つしかありませんでした。
揺れが収まった時、室内は停電で真っ暗、家具は散乱し足元にはガラスの破片が落ちていました。カーテンを開けると夜明け前にもかかわらず遠くに広がる神戸の町が赤く燃え、煙が立ち上る様子が見えました。
道路は隆起し、倒壊した住宅もありました。ライフラインは電気のみ復旧し、水道とガスは使えない状態でした。コンビニの棚は空っぽでガソリンスタンドでは1台につき10ℓまでの制限。救急車が足りず負傷者を病院に運ぶ車が長蛇の列をなしていました。
震災後、私は神戸から帰郷し、飲食店を経営しています。
この経験を通じて自分ができる形で支援を続けています。東日本大震災が発生した際、店内に募金箱を設置し、お客様と一緒に募金を集めました。また能登の地震の際も同様に支援を行い、現在でもオリジナルステッカーの売上の半分を募金活動に充てています。このような小さな取り組みでも継続することで多くの人の役に立つと信じています。
周囲には震災後も人々を助け続ける方々がいます。震災以来、毎年1月17日には、みかんを何箱分も無料で子どもたちに配っている方や子ども食堂を定期的に開き、子どもたちに温かい食事を提供し、宿題を見てあげる方がいます。その姿は助け合いの大切さを示し続けています。
私自身、この体験を娘や息子に語り継いできました。
東日本大震災が起きた際、高校生だった娘は南三陸でボランティア活動を行い、復興のための商店街のパンフレットを制作しました。さらに漁師さんに同行して撮影を行い、帰郷後に写真展を開催するなど全力で復興支援に取り組みました。この経験が後に地域の発展に尽力する政治家として県議会議員の道につながっています。
震災から年月が経っても、被災した人々はあの日の記憶を鮮明に覚えています。天災はいつ起こるかわかりません。だからこそ家族や地域で備えを話し合い、必要な準備を怠らないことが大切です。
文明が進化しても天災を防ぐことはできません。しかし備えと助け合いで被害を減らすことはできます。
これからも次の世代に伝え続けることが私の今できることです。
タイトル
私の人生の心の支えは神戸への深い絆
投稿者
今井佳奈
年齢
53歳
1995年の居住地
兵庫県西宮市
手記を書いた理由
私は神戸を第2の故郷と思い、震災後も思いを馳せ続けています。息子がご縁あって神戸の高校に進学し、寮生活を送る中で幾度となく神戸を訪れ、現在も神戸で暮らす方々に会いに行っています。議員になった娘も神戸市の町の催しを視察し繋がりを深めています。神戸とのご縁は私の人生から決して離れることがありません。今回の募集を通じて震災の記憶を改めて共有し私が深く愛する神戸との絆を伝えたいと応募しました。