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震災10年目の節に、小学生の子供が学校から持って帰ってきた、10年目に子どもたちへの手記の用紙に、さらさらと思いを綴った。

仮設住宅に居た時の話だ。当時は、今のように「震災に備える」ということがあまり想定されておらず、避難所では、1才の娘を、体育マットの隅に寝かせて頂くだけで精一杯、上の2人の息子は床で、もちろん毛布も無い。誰もが予測していなかった戦後初の大地震に、生きた心地もせず、また、脱出する術も無い人は(道路は渋滞、電車は止まり復旧に何日か要した)、ただ、ただ、時が助けてくれるのを待っていた。としか言いようがない。

避難所には、そのうち物資も届き、子供が熱を出せば他県から、なんとヘリコプターで救急班の方が来て、寝泊まりしている教室で点滴をしてもらった。そして、やっと念願の仮設住宅が当たり、住まわせて頂いた、あの時の安堵は忘れられない。

今、日本中が震災に備えるようになり、仮設住宅も二重窓で進化しているみたいだ。進化していると言ったら変だけど、私は10年目の手記にこう書いた。「ある朝とても寒くて、寒い寒いと抱き合った。東北に住んだことはないけれど、こんなに寒いのかと思った仮設住宅……」と。

でも、良いこともあった。仮設住宅に、なんと、ちんどん屋さんがやってきたのだ。ちゃんと衣装をまとい、きれいにお化粧し、楽器をもち、ピーヒャラどんどん、仮設住宅中の子供が、多分、間近で見たことないであろう、ちんどん屋さんにわくわくして飛び出して行き、ちんどん屋さんもまた、子供達の前で止まり、演奏してくれた。私は手記に、こう書いた。「どんなにつらいことがあっても、あの時の、ちんどん屋さんのように、少しでも楽しいことがあるならがんばって」と……。その後、その手記は、人と防災未来センターで、当時の高校生によって読まれた。が、私は体調を崩し、せっかくお電話を頂いたが、その式典に行けなかった。

今、30年目の節目に思う。少しでも楽しいことがあるならがんばって。と、10年目の手記に書いたけれども、これは震災に遭った人遭わなかった人に限らず、生きることは、どんな人にも闘いだ。どんな人にも悩みがある。大人も子供も。生きることは、生き続けることとは決して簡単ではない。生きていれば必ず悲しいこともある。

だから、だから、戦争の話を風化させてはいけないのだ。震災も風化させてはいけないのだ。私は、30年目に、そう思う。つらい話だけど、人間は前を見て生きていかなくちゃあならないけれども、戦争や震災の話を風化して、「思いやり」を忘れてはいけないのだ。だから語っていかなければならないというのだと私は思っている。

人が亡くなったり戦争や震災は、つらい話だ。だけども、語っていくのは、当時、人々がもっていた「思いやりの心」を、いつまでも忘れないで、負けないで生きていこう、ということだと私は思う。

タイトル

30年目を迎えて

投稿者

内山真理子

年齢

55歳

1995年の居住地

神戸市東灘区

手記を書いた理由

最近、ふと、戦争を風化させてはいけない、震災を風化させてはいけない、という理由がただ単に防災の意味だけでなく、「思いやりの心」を、日本中、世界中の方が、忘れず生きていくことが、良い世の中に繋がるのではと思いました。