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私は阪神・淡路大震災当時、中学1年生13歳だった。
西宮市に住んでおり、震度7の揺れを経験した。
自宅は半壊。同居家族は全員無事だった。
西宮市内に住んでいた祖父母が亡くなった。
通っていた中学にも亡くなった生徒がいた。その中には同じ部活の同級生もいた。
あの当時、両親は家業の片付けなどに追われ毎日大変そうだった。
母が夜中に泣いていたのを何度か見たことがあった。
遠方の親戚が来たり、母の友人から電話などがあり、いつも「お母さんの力になってあげてね」と言われた。

母は死ぬのかもしれない。
漠然とした不安がずっと私の心の中にはあった。
2週間後学校が再開した時、アンケート調査が行われた。
家の状況や家族の状態、困ってることなど書く欄があった。
母が最初の地震で頭を怪我しており、近くの薬局で消毒してもらっただけだった。頭を打っているかもしれない。病院で診てほしい。
そんなことを書いた。
でも、もちろん病院へ連れて行ってもらえるわけでもなく、お医者さんが診に来てくれるわけでもない。
母の頭の怪我はおそらくガラスか何かで切ったような状態で、頭も打っていなかったのか、その後何かあることはなかった。
何度か病院に行くように言ったが、それどころではなかったのだろう。

13歳という微妙な年齢。子供でもなく、大人でもない。
子供のようにわがままをいうこともできず、親の大変な状況を見れば、もう我慢するしかない。
我が家は半壊状態。2階への階段が外れ浮いているような状態。
とてもじゃないが、余震に耐えられるとは思えなかった。
あの日、外が暗くなってきて、とても怖かった。
祖父母の家が崩れているとおじから聞き、様子を見に行った両親がやっと帰宅。両親は泣きながら祖父母が亡くなったことを話してくれた。
暗くなってから、私は近くの小学校へ避難したいとなんとか訴えた。
避難所の様子を父が見に行き、とても今から入れる状況ではないと言われた。
そして父は言った。
「どうせ死ぬのなら自宅が良い」と。
この言葉が私にはずっと深く残っている。

幸いなことに余震で崩れることはなかった。
あれからもうすぐ30年、父は数年前病気で亡くなったが、母は健在である。
私は二人の小学生を育てるママとなった。
結婚後神戸市に住んでいる。
今年上の子が防災学習として、震災のことを学んでいる。
震災の映像をみて泣き出す、とても感受性の強い子だ。
しばらくは夜中にうなされたりもしていた。
寝る前に「地震来ない?こわい」と言って泣き出すこともしばしば。
これは大変だ。
上の子は繊細で、ニュースで土砂災害の映像や戦争の映像などをみてパニックになることもあり、以前スクールカウンセラーに相談したことがある。
どうすればよいのか。
「未来のことを一緒に考えてあげて下さい」
そうだ。防災について一緒に考えよう。
地震はいつ起こるか分からない。じゃあ、何ができる?
こわいから、何をしたら安心できる?

大きな家具は固定した。
保存食や水も一緒に用意した。
非常時用のトイレも用意した。
緊急時どこへ避難するのか、一緒に調べた。
お出かけの時は、その場所は津波が来る可能性のある場所なのか、どこへ避難するのか調べた。

そうだ。私はあの時、両親と一緒に未来を考えたかったのだ。
祖父母が亡くなったこと悲しかった。もっともっと一緒に悲しめば良かった。

夜中泣いていた母に抱き着けば良かった。
父に死ぬなんて言わないでって言えば良かったのだ。

子供が怖がることで親はどうすればいいのか考える。
子供が防災について学べば、親に教えてくれる。
子供の力は絶大だ。
これからも子供たちと一緒に未来を考えていきたいと思う。

タイトル

親となり

投稿者

ゆあママ

年齢

42歳

1995年の居住地

兵庫県西宮市

手記を書いた理由

30年経ち、親となり改めて感じたことがあったから。