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「平成何年生まれですか?」「えーと、平成6年ですね」「あら、じゃあそのときこの辺にいたの?」「いや、出身と育ちは宮崎なので全く……」

私は関西生まれではない。しかし、関西圏において1995年もしくは平成7年に近い生まれだと話すと、あらゆる表情や言葉がけで私に対する距離を測ろうとしてきた。

大学院生になり京都に住むようになって、ことあるごとに神戸や大阪に呼ばれて赴くことがあった。冒頭はそこでよくかけ合う言葉たちだ。関西特有なのか、優しいおせっかいや言葉のキャッチボールは温かくてありがたいのに、この限りにおいて、阪神・淡路大震災という言葉も地域も事象も、私にはなにかのはしっこから遠くを臨むかのようにどうしても感じていた。

でも、まったくかかわりがないわけではない、といってもうっすらだ。小学生の頃、学校で避難訓練のたび、阪神・淡路大震災の経験をもとにした映像や語りを教室のブラウン管のテレビに釘付けになって何度も見た。記憶の限り6年間同じビデオだったから、次にどんな展開があるかは刻み込まれたかのように知っていた。そのはずだけど、見たくない惨状に当時いつも心がビリビリした。「はい、というわけで」とビデオを止めた後の担任の先生の一声で、テレビから今学ぶ教室に焦点が戻った。先生の教訓話を聞いてだんだんビリビリは落ち着いた。

かつて、日向灘地震(今日では南海トラフ地震に大きく括られる、地元での地震の呼び名)が30年以内に起こるだろうと流れたローカルニュースにはドキリとした面持ちで親と聞いた。来年の9月に起きるらしいよ、帰り道の校庭で石蹴りしながら友達から聞いた根拠のない話には、「えー、どうするんだろう」と少し焦り笑いながらも、先の映像で見た壊れた街の風景を真剣に受け取って、今ある帰り道の景色を大切に抱きしめるように帰った。ちょっとだけそうやって思い馳せたとき、ほぼ同い年のその言葉に近づいた感覚もあった。

そこから随分時が経った。気づいたら私は30歳だ。そんな私が今、災害研究をするだなんて、小学校の頃の私はまさか思ってもいなかっただろう。たまに実家に帰る時も先の感覚をカラーで思い出せる。

でも、その楽観視も急転した。8月はじめ、日向灘を震源とする最大震度6弱、マグニチュード7.1の地震が発生し、気象庁は、南海トラフ地震臨時情報を発令した。私は地元にはいなかったからこそ焦った。幸い、実家や親戚、仲のよい友人たちの多くは無事だった。無事だったからこそ、不穏さは錯綜した。

結局、時間が経って情報は解除され、何事もなかったねと安堵している家族や友人たちとのレスポンスの傍らで、やっぱり私は遠くを臨む感覚を拭えなかった。ちょっと寂しかった。本当に震源はこんなにも近かったのに、いつか起こるカタストロフィを遠くに待つようなささやかさとして片づけられたことに対してそう思った。

タイトル

遠く、近づいて、待っている。

投稿者

土田亮

年齢

30歳

1995年の居住地

宮崎県宮崎市

手記を書いた理由

研究や対話の大切な友人である高森順子さんから誘われました。先に公開された手記を読んで、多彩な文章と世代、1995年の居住地のヴァリエーションから、私も思い当たることはいくつか断片的にあるから、書いてみようかなと筆を取りました。ほんの少しだけ、自分のなかのここ最近の焦りが落ち着く場所に位置付けられてよかったです。