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私は今74歳2か月余り、61歳で常勤の仕事をリタイアし68歳で非常勤の仕事もリタイアした。
この仕事にも大きく影響を及ぼした阪神・淡路大震災からはや30年。
今でも私はあの時、神に生きよと其の手で4歳の子どもと共に救われたと信じている。

あの日、夫は前日朝から出勤し、引き続き泊まりの勤務で不在であった。
小学校に勤めながら子どもを私立の保育園に7時30分に預けに行くため、朝は5時30分過ぎに起きる習慣であった。尼崎市塚口町の駐車場が1階にあるマンションの4階に親子3人で住んでいた。揺れがやってきた時は、よいお天気で布団から起き出そうとしていたその時だった。ゴオーという地響きが西から聞こえ、何が起こるのかと身構えたとたんもう暴れ馬の背に乗っているのかと思う烈しい上下振動が起こり、大地震と認識した。2LDKの間取りで6畳の寝室には2mの高さの洋服ダンス、1.5mくらいの高さの整理ダンスなどを西、東の壁に配していたため、背の高い洋服ダンスはこの烈しい揺れに耐えられなかった。私とまだ寝ている子どもの頭の上にまるでスローモーションの動画を見ているように倒れてきた。私は子どもの名を呼びながら右手で必死に揺り起こし、左腕で洋服ダンスを受け止めようとした。この後のことは記憶が飛んでしまってどうやって子どもを布団から引き出したのか、その場から二人して逃れ、圧死を免れたのか全く覚えがない。記憶が戻ったのは負傷した左腕の刺すような痛みからであった。まさに神の加護があったとしかいいようがない。大勢亡くなられたあの瞬間に私達は救われたのだ。この経験によって救われた命を私はこの後、どう生きて行くべきか真剣に考えるようになった。

小学校に勤める公務員の安定に胡坐をかいてこのまま生きる自分で本当によいのか、若い時に抱いていた仕事人の自分はもう少し違ったのではなかったか……とあれこれ逡巡した。

2年後、私は退職し、神戸市東灘区内で被災された独居高齢者を主に対象とした昼食提供活動でのボランティアを始めた。この後、長年密かに願っていた大学院に入学し、20歳以上年下の学友と切磋琢磨した院での生活を修了した。その後、非常勤を経て大学の常勤職として教鞭をとる生活となった。
震災から8年、既に50歳を過ぎていたが若い頃目指していた仕事に漸く就けたのであった。

震災後の様々なステージで失ったこと、ハラスメントに晒されたこと、家族に充分なことができなかったことも少なくない。しかし老いの日々を生きる今、あの震災によって命を突然奪われた人々の生きたかった日々を七転八倒しながら共に生きようとした私の半生に少し満足している。

タイトル

30年後の私から

投稿者

伊丹瑞陽

年齢

74歳

1995年の居住地

兵庫県尼崎市

手記を書いた理由

私は緑内障で長年治療を続けている。不治の病で徐々に見えなくなってきている。命の尽きるのがずっと遅いと視力を失った自分を受け入れなければならない時が来る。また、2025年になれば所謂「後期高齢者」となる。この時期に改めて自分の半生を振り返ってみた。震災によって大きく生きかたを変えざるを得なかった方とは異なり私は、それまでの安定し、持続可能だった生活を敢えてリセットし忘れようとしていた、なりたかった自分への道に揺り戻されたのである。視力、気力が残されている今ある意味「社会的遺書の前段」でもある手記を記し置くことにした。